前に書いたこの記事で、
謀反の疑いをかけられ、畠山親子(重忠・重保)が殺されたのは、「牧の方」という若い後妻が原因だったんだ、となんとなく紹介しました。
牧の方は、北条ヨシトキの父・北条時政の後妻。
牧の方と一緒になってからの北条時政はなんとなく、この若い女性にコントロールされていくように、ちょっとだけ軌道がおかしくなっていくような感じがします。
どうして牧の方は、畠山親子を目の敵にしたんでしょう。
牧の方は北条時政の妻なので、北条ヨシトキや北条政子からすると「母」ということになるのですが、もちろん後妻なので、産みの母ではありません。
牧の方は、前妻の子である北条政子や北条ヨシトキよりも、自分が産んだ六郎(政範。まさのり)が可愛い。
官位的に出世し、北条家の跡取りとなるのも、北条政範であるべきだと本気で思っています。
北条政範は文治5(1189)年の生まれ。
父親の北条時政は保延4(1138)年の生まれですから、六男・北条政範は50歳を超えてからの子供ということになります。
牧の方と北条時政の年齢は、かなり離れていたらしい。
北条ヨシトキは長寛元(1163)年だとされているので、異母弟とは言え25歳も歳が離れてるんですね。
気位が高く、実力者である夫の権力をそのまま振り回すかのような言動を繰り返す牧の方と、北条ヨシトキ、北条政子はだんだん折り合いが悪くなっていく。
牧の方が推しに推している実の息子・政範が15歳の時。
京都へ行くことになった元久元(1204)年、旅の途中で、彼は病気になってしまうのです。
牧の方が推しに推しているもう一人、平賀朝雅(ひらがともまさ)は京都守護として京都にいるわけですが、この北条政範が病気になったこと、そしてついに若くして死んでしまうことは牧の方を強烈に落胆させ、それが当時、一緒に上洛していた「畠山重保との口論」につながっていくわけですね。
牧の方が「畠山のせいで愛息・政範が死んでしまった」と、恨みを持ってしまった。
そもそも、平賀朝雅は武蔵守で、武蔵国に元々根を張っている畠山氏とは、ぶつかりやすい立場にあったのだそうです。京から指名されて派遣されるトップである国守と、先祖代々そこに住んで武力を誇る豪族とは、年貢の問題などで対立しやすいんですね。
そういう下地もあって、いよいよ畠山は許せない…!っていう感じに、牧の方がなってしまう。
「畠山さえいなければ」みたいな思い詰めた感じに。
母として、我が子を失った苦しみは想像に難くないですが、だからと言って病死なのに畠山のせいで可愛い息子が死んでしまった、くらいの強い感情を持ってしまうことになります。
「謀反です」を無理やり言い出すきっかけになったということですね。
従わざるを得ない北条ヨシトキらは、畠山を滅ぼします。
けっきょく北条ヨシトキはその後、父である北条時政と継母・牧の方を追放し、京都で平賀朝雅も殺し、武蔵国は北条氏のものになるんですが、殺された畠山重忠は、英雄として記録されます。
『吾妻鏡』は北条ヨシトキを「とにかくすごい人でした」という印象にするために書かれているらしいので、
畠山は悪くない
↓
つまり悪いのは父・時政
↓
もっと悪いのは牧の方だけどね
↓
それをちゃんと追放したヨシトキ
という順番で、読んでいくと「ヨシトキすごい」という印象になるように出来ているんですね。
混乱が当たり前な、時代の空気とは
この頃を想像すると、「謀反の心があるかどうか」って、口頭で誰かが「そうらしいよ」と言うだけで「討ち取ってしまえ」となりかねないくらい、ギリギリのところだったんだなぁと思いますね。
一応、申し開きができる場を設けられたりする例もあるんでしょうけれど、討ち取られたら死人に口無し、事後報告で「謀反でした」と言われてしまいます。
そもそも、それぞれが武力を持ってるというのはそういうことで、権力欲が高じて、今までの東国武士団は潰しあってきたんでしょう。
(京の)権威に弱く、欲が深く、家族愛が強い。
そこに、「幕府」という公的な行政機関を確立するということで、冷静に、公平な政治体制を築いていくという未知の理想が現れた。
源氏の大将を担ぐ、という大義名分があるから普段は抑えてるけど、実際にその権力基盤を支えているのは自分らの暴力装置である、という自負がある。
武士団である豪族と、幕府を動かす官僚組織。
混ざり合いながら、住み分けながら、「人」ではなく「法」を基準にすべく、じょじょに形になっていく幕府。
その過程を迷い、泳ぎ、勝っていく北条ヨシトキ。
そうなるように、計算してた…のか…!?