改めて思いましたんで、書き残しておきます。
日々、病んでる人に出会うんです。
いえ、会う人会う人病んでるわけではなくて、「病んでるかのように悩んでる人」が大勢いるなぁ、と感じるということです。
「悩む(NAYAMU)」の中には「病む(YAMU)」が含まれてしまってるけど。
悩みを構成している部分というか、心の持ちようが、皆、とても似ている。
言い過ぎてしまうことを許してもらえるならば、
「悩まなくていいことにずいぶん悩んで、考えた方がいいことを無視して放置している」
という人がいる。
これは、なんでなんだろう?
「その悩み、どうしたらいいんだろうね?」ではなく、「なんでそうなるんだろうね?」という感じです。
私はカウンセラーでもなければ医者でもないので、解決はそりゃもちろんした方がいいけど「似た目をしてる人は本当に同じことで悩んでる」っていう事実に、少しだけ魅かれてしまっています。
そんなことを言ってると「こっちは真剣に悩んでるんだ!」と怒られるかも知れませんが、多分、同じ国に住んでて、似た様なものを食べ、似た様な学校に通って似た様な乗り物に乗り、似た様な環境で生きてるんで、悩みって似てくるんですよね。
例えば東京に住んでる人らで、あんまり「目や耳や下着や靴の中に、砂が入って仕方がない。どうしたらよいでしょうか」っていう人はいないんですよ。
だけど例えば「花粉の季節になるとかゆくて仕方がない」という人はたくさんいる。
物理的な悩みに例えればそういうこと(似てくるっていうこと)が、心理的にもあるっていうことです。
そう言い切っていいくらい、同じ様な人は同じ様なことで悩んでる。
では、なぜ、悩むのか。
これは、
「悩むスペースが空いているから」。
だと言えると思います。
これ、覚えておきたいですね。
これから出てきます。
さて、日々スマホで、何やってます?
Facebookを見てると、特に思うんです。
この記事で書きました様に、現代病にとりつかれたたくさんの方々が、日々の暮らしを、上限いっぱいまで修飾してアップロードされています。
日々の食事の中でも、写真に撮って映えるものだけを。
日々の行動の中でも、公表して映えるものだけを。
「こうでなきゃ病」に無意識に犯された善良な方々が、無邪気に拡散している「流行性こうでなきゃネコシャクシVIRUS」。
これ、セレブ感というとちょっとずれてしまうかもですが、「セレブ目指さなきゃいけない病」でもあるわけで、この写真攻撃・暮らし攻撃・ライフスタイル攻撃・人脈攻撃を他人から毎日食らうと、必ず病みます。
人のタイムラインを追いかけて「あの人は何日前にどこそこへ行ってたみたい」とか「今日はどこそこにいるみたいで誰それとアレを食べてた」とか、そういうのを事細かに見ていくと、必ず病みます。
人間は、見てしまうと、どんな情報であっても「見なかった時間」には戻れませんから、頭の中には残ります。
入ってきた情報は情報処理センターに運ばれます。
運ばれた情報は、様々な方法で処理されます。
「そんな他人の日常なんて、中身なんかないから、いくら見たってただ流れていくだけ」だよ?
そう思ってるでしょう?
大きな間違いです。
確かに、自分にとって関係のない他人のライフスタイルなんて、血にも肉にもなりません。
じゃあ、全くの「無」が脳内に、心に入っていくのか。
違います。
「空箱」が入っていくんです。
心に、空箱が積まれていきます。
空箱ですから、中身はありません。
でも「何にもない」とは違いますよね。
空箱の中身は、文字通り空虚です。
空虚な、エンプティな、容積だけ大きな箱が、どんどん積まれていきます。
そこに、「自分の何か」を入れることはできません。
心が、どんどん空箱で埋まっていきます。
もちろん、人間の心は大きなものです。
全てが満タンにはなったりはしません。
でも心は、何か苦しいことが起こると、全体が縮むんです。
あんなに大きかった心が、そこまで小さくなるかというくらいに。
そんな時、他人の生活を追いかけて仕入れてしまった空箱が、「虚しさ」として邪魔になってくるんです。
ここに、「病む」ための素地が出来上がります。
空箱には自分で咀嚼して滋養となる知識も、知恵も入ってません。
開いても、自分の役には立ちません。
だからといって何を入れることもできず、役に立たない空箱。
自分のために使うべくしてあるはずの心の四畳半を、他人のために使っている。
これは、いつしか「他人が悪い」と人のせいにするための材料になってしまいます。
他人のせいにしている限り、ハッピーは訪れません。
これはどうやら、間違いのない真理のようです。
「あの人のせい」「あいつらのせい」「あの時のアレのせい」「学校のせい」「会社のせい」「社会のせい」「親のせい」「時代のせい」「自分のせい」
おや???
最後の「自分のせい」は責任転嫁じゃないじゃないか、と思われるでしょう。
ややこしいですが、究極の責任転嫁が「自分のせい」なんです。
都合よく自分を他人扱いして、責任転嫁してしまうんですね。
こうなると、責任を転嫁された方も自分なので、いっさい改善に向かわないことになります。
「自分が悪いのはわかってるんですけどね…」と言いつつ、何ら良い策を打とうとしない人たちは、これに当たります。
思い当たるフシが、ありませんか?
「俺ってどうしようも無い奴」
「アタシってダメね」
「自分はこういう人間だから…」
など、ナルシスティックに卑下し自嘲ている風で、実は自分に甘いだけの責任転嫁。
これをやっている限り、悩みは消えません。
悩まなくてもいい方向へ逃げていることになってしまうのです。
最終的に「こんなことで悩む自分、なんてかわいそうなんだらう!」みたいになってしまいます。
こうなると、
「それはこうして、こうすればいいのではないですか」
と提示しても、
「そこはこういうことだと思いますので、これが有効です」
などと道筋を示しても、
「ふう…どうしたらいいんですかねえ…」
という答えが返ってきます。
え!?人の話、聞いてる????
悩んでる自分に酔い、相談している自分に酔い、解決しない自分に酔う。
こういうのは「ヘベレケナルシスト」と名付けましょう。
では、どうすればいいのでしょう。
本当に、自分のことで悩んでいる人は、自分との対話に時間を使うのが良いですよね。
心に積まれた、「空箱」を捨てるのです。
他人を追うのを、やめるのです。
他人の人生を生きている風な錯覚をして、自分の人生とのギャップに苦しんでしまうのをやめましょう。
改善策の一つは、「物語を読む」です。
架空の、練られた他人の人生を、一区切り論理とともに味わうというのは、想像力を養いながら心を鍛えるにはもってこいです。
有史以来、この「物語」という形式が廃れていないのは、教育全般において、これ以上ないほど有効だという証拠だと思います。
「たけしくんは」で始まる算数の文章問題が良い例ですね。
物語、なんです。
我々は、自分という物語だけでなく、他人の物語の中でも、同時に生きているでしょう。
家族の物語にもいるし、友達の物語にもいる。
未来の人たちの回想の中にもいるし、過去の人たちから続く歴史物語の中にも生きている。
連綿と続く物語の登場人物として、我々は絶え間なく紡がれる人生の糸を編んでいます。
自分の人生が、どこかと繋がっているという感覚こそ、余計な虚無に食われずに、豊かな気持ちを育んでくれる種になります。
他人の、しかも架空の(それは歴史上の実在の)人物の生き様を感じることで、それは本当に、我々の人生の一部になるんです。
何ヶ月に1冊、でいいと思います。
人の暮らしに悩みは尽きませんが、「悩まなくていいこと」に関しては、解消する可能性があります。
「物語を読む」は、他の何よりも効くクスリだと、思いますね。
とはいえ…
こう言っても、いっさいやらず(なんの努力も発案もせず)、「はぁ…どうすればいいんでしょうねえ…」という無限ループで苦しんでしまう方は、本当の無限ループの苦しみを、地獄に堕ちてから味わうことになりますよ(急に宗教的な脅しか)。
でももし、「これで悩んでるんです」という方が居たら、その悩み自体のことは知りませんが、「悩みを消す具体的な方法」のもっとすごいやつ、直接お教えしますよ。
それやると、絶対、悩まなくなりますから。
10万円で教えます(急に胡散臭い勧誘か)。