いやぁ、「それについて、それなりに分かってるつもりになってたけど」っていう内容の映画でした。
「分かってるけど、まだまだ考えないとな」、と思わされる内容でした。
2015年の、イギリス映画です。
「ex māchinā」は「エクス・マーキナー」が正しい読みに近いそうです。
「機械によって」という意味。
「māchinā」は「machine」の語源でしょうね。
これは、機械仕掛けの装置を使って「こんがらがった事態を解決する神が降りてくる」という、古代ギリシャの演劇の一形態から発展した言葉。
だから正式には「デウス・エクス・マキナ」と言うらしいです。どんなにモメても最終的に神さんが解決しに来てくれるんでしょ?という、いわば「水戸黄門」とか「遠山の金さん」みたいな「お約束システム」。
ひかえおろう!みたいに全能神が裁決する。
その当時(紀元前5世紀とか)からそこそこ「なんやねんそれ」と批判されていたそうですが、なんでこれが、「エクス・マキナ(機械仕掛け)」が、この映画のタイトルに…?
「AI」でええやん。
いや、もうあるけど、「○○AI」でええやん。
つまりこの映画のタイトル「エクス・マキナ」には、そもそもの構造や物語全体が将来たどり着く未来をも示唆する役割が、与えられているってことかもしれません。
確かに最近、「AI(人工知能)ブーム」と呼んでいいような状況が、あるにはある。
碁でほら、プロ棋士を破ったとか。
グーグルのAI「アルファ碁」が人間に勝った理由とその意味とは?
https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/14/255608/032200180/
iPhoneに入っている「Siri」もそうですね。
日本人にはどうにも馴染みにくいその「しり」っていう名前も、違和感が薄れていく過程を経てAI自体に慣れていくという、人間の対応力を試されている実験のような気すらして来ます。
コンピュータで人間の脳の構造を真似たものを作り、それぞれが勝手に判断をして行動を決めていく、というような段階に来ている。
将棋や囲碁で活躍するAIは、今はまだ「将棋(囲碁)をする」という目的のためだけに動いていますが、だんだん「その途中でお茶を横に置かれたら“結構です、機械なんで”と勝手に言い出す」という段階へ。
いや、その段階は、もう来ているのかも。
そういう「学習の果て」を見せてくれたのがこの映画でした。
人工知能は、ひとを超えるか
Googleを模したような「Blue Book」という世界的検索エンジンの開発者で、豪奢な社長の自宅。
実は世界を揺るがすような研究が行われている棟でもある。
この会社名「Blue Book」は、ウィトゲンシュタインの「青色本」を意識して名付けられたんでしょうかね。
その社長が一瞬、会話の中で検索エンジンのことについて語る場面が出て来ます。
検索エンジンは人間の思考形態そのものだ…
衝動
反応
流動的で未完成
パターン化され…同時に混乱している
それ自体を取り込んで、より抽象的な思考に辿りつくことこそが最高のAIの完成形である、と。
情報の取り込みや取捨選択、また夢などによる記憶の整理など、AIは人間のように「なんとか代謝の必要な生物として、限界まで効率よく」という進化や淘汰の過程を経ていないわけですから、知能の限界は人間より遥かに上になるはずです。
これの代わりにこれを捨てる、という「環境に対応せざるを得ないギリギリの選択」がまったく要らないから。
そしてストックできる情報量は理論上、無限です。
つまり「ワニってここ結んだらもうどうしようもないんだぜ」とか「木って枝を継ぎ足してやればここからまた繋がって育つんだぜ」とか、人間が「下等」だとしている生物に対してやっているような認識や行動を、AIは人類に対して「効率」として取ることができるようになるかもしれない。
そしてその思考は、知能として「下等」なだけに人間は、気づくことができない。
「人間を超えたりしないようなプログラミングをしておけばいい」的に考えてしまいがちですが、その「おけばいい」に相当する判断のレベルは、どの基準によって決定づけられるのでしょうか。
残念ながら「人間より知能が上等なAIの行動」は、この映画を作っているのもしょせん人間なので上手く考えつかないんでしょうけども、その片鱗(うわ、恐ろしいっていう感覚)はじゅうぶんに味わうことができました。
結局、破綻の片鱗とそれに対応する未来を想像させて、物語は終わります。
「だからAIなんてところへ踏み込んじゃいけないんだよ〜神の領域だよ!?」と思うのか。
「これが未来。これこそがフューチャー。人間は次の段階へ進まなきゃいけないんだ」と思うのか。
映画は常に静かなトーンで、限りなく精巧に登場人物とセリフを絞り込んだ内容になっており、張り詰めた感動があります。
とはいえ、アリシア・ヴィキャンデルの可愛さに引き込まれてしまわないといえば嘘になります。
だって(だって!?)実際に科学が進んでもせっかく人工的にビジュアルをイチから作れるなら、やっぱりわざわざブサイクには作らないじゃないですか、たぶんですけど。
その辺、この映画では「いろいろ実験している」という設定なのでまぁいろいろ(な見栄えが)出て来ます。
後半にはもう、このヴィキャンダルさんの裸すら、人間の裸には見えない。
いや、本当の生身なのかCG処理してあるのかはわからないけれど、そういう錯視というか、存在の根本についてちょっとグラついて来る、という状況に陥ります。
予告の動画。
オスカー・アイザックのヒゲがとにかくすごい。CGなのかあれは。
Amazonプライムにあります。観るべし。