これまた折悪しゅう、「還俗還俗」「出家出家」が飛び交う回でございました。
同じ日曜に放送されている「鉄血のオルフェンズ」、こちらはだいたんに思いっきり進んだというのに「おんな城主 直虎」はさすが、どっしり構えてほとんど進みません。
いや、こちらは1年を通して50回の長丁場ですから。
そんなに進めてどうするんです。
教科書に記述するなら3行で終わるようなことを1年かけるのですから、客観的な情勢なんぞを語ったら進んでしまいます。
ドラマは登場人物の感情にスポットを当て、「その状況で主人公はどう思ったか」の共感へ、観客を導いていくんです。
その意味で、自分の幸せよりも井伊家そのもののことを慮(おもんぱか)ったおとわ(直虎)に、悲しい人生の影を我々は見るのです。
直親(三浦春馬)が提案したように自死したように見せかけ、どこか隠れた里で夫婦になれば良いではないか、という想像を、一度は受け入れた直虎。
でも、それではいかんと、逃げることを拒否します。
徐々に、強豪・今川の締め付けは強くなっていく国際情勢です。
はっきり言っていつ「兵を出すべし」と言われるかわからない状況。
直親にもしものことがあれば、やはり還俗して井伊を継ぐのはおとわだ、ということになりかねません(実際にそうなる)。
だから「死んだこと」にして、自分だけ隠れて女として幸せになることはよくない!と、涙ながらに決断したんですね。
伯?中?
しかし、南渓和尚の出してきた、甲乙つけがたい二人のうち、どちらを追い出すかというエピソード、正直よくわからなかったんですが、どういう意味です???
「ちょうの国では」と聞こえたので、とうぜん「趙」だと思ってましたよ。
趙は、紀元前にあった国で、秦の始皇帝が全土を統一する過程で滅ぼされています。
歴代君主の中にも、南渓和尚が言ってた「道威(どうい)」なんて人はいない。
…と思ったら公式ページには「超の国の話を聞かせる。」と書いてありました。
古代中国にも「超」という国は無いみたいなので、これはひょっとしてオリジナルエピソードなんですかね…。
ちなみにこの「超」が「趙」をモデルにしているとすると、「饅頭」というのはこれまた面白い時代の差を感じざるを得ません。
何しろ「まんじゅう(まんとう)」というのは3世紀、あの諸葛亮孔明が考えたと言われているからです。
つまり3世紀。
実に「趙」の時代とは、上下500年くらいの時間差がありますが。
どちらにしても、孔明が考案した饅頭も当時から「もったいないから食うことにする」ものだったようですが。
なぜ架空の法話が必要だったのか?
これは予想の範囲を出ませんが、おそらく「食わないで置いておいた」という架空の故事を創出しないと、おとわ(柴崎コウ)の決断には無理がある、という判断だったのでしょう。
つまり、普通はのちの君主である直親(三浦春馬)がそうしようと決めたのならば、あれくらいにバックハグを決めるくらいの情愛が通っているのであれば、おとわは「そうした」かもしれないのです。
直親はのちに死に、おとわは直虎となって井伊を滅亡させないように奮闘する。
この結果をわれわれは知ってしまっているので、おとわが乙女としての幸福を選ばずになぜか法師のままでい続けた、その明確な理由が必要だったということですね。
ということは勝手に逆算しまするに、実際のところ亀之丞とおとわは、まぁそんな感じでもすでになかったんだな、ということではないかと…ミモフタモなく思うのでありました。
しかし登場する松平元信(のちの徳川家康・阿部サダヲ)、こちらもまぁそれはそれは振り幅を効かせたキャラ設定になっていますね。
ダメ野郎。
瀬名姫(菜々緒)に叱責されてもヘラヘラ笑ってるような。
そりゃのちに天下統一する人ですから、ギャップ作りです。
そして、「でもスズメを手なづけてしまう奇才」イメージ。
※公式サイトより
おんな城主 直虎 オフィシャルサイト
http://www.nhk.or.jp/naotora/