三浦を拠点にしてたから、三浦氏。
「三浦半島」にその名は残る。
鎌倉幕府最強の武士団にして、先祖累代の源氏の家臣。
時代が進んで源頼朝(みなもとのよりとも)の子ら・河内源氏直系が将軍の座にはいなくなり、将軍を支える執権職は北条得宗家が独占することになった。
将軍はお飾りでよくなり、政治は御家人らで回していくことに。
そんな中、常に三浦氏は、キャスティングボートを握ってきた。
仲良く出来ない外戚一族
どんな世でも、上流階級におけるモノのこじれは「お世継ぎ問題」であり、それに付随して起こる「外戚問題」である。
かつて源頼朝の後継者・源頼家(みなもとのよりいえ)が鎌倉殿になると、外戚として比企能員(ひきよしかず)が権勢を奮い始めた。
北条政子(ほうじょうまさこ)の実家である北条氏と、対立する関係になり始めたのだ。
源頼朝にとって妻の実家である北条氏と、息子の母の実家である比企氏は、幕府内で「二大巨頭」になるはずだった。
おそらく源頼朝はそういう設計図を描いていたし、そう周知していたはず。
鎌倉幕府の「正史」とも呼ばれる『吾妻鏡』には、源頼朝の死期周辺の記述が一切ない。
北条氏の手による、後年の編纂である『吾妻鏡』には、正直に源頼朝の言葉を記すと都合の悪い事情があるとしか思えない。
源頼朝が急死(建久十・1199年)すると、建仁三(1203)年、比企能員は北条時政(ほうじょうときまさ)に謀殺され、排斥されてしまう。
比企能員の変(建仁三・1203年)で源頼家排斥の路線は決まり、源実朝(みなもとのさねとも)がその後を継ぐ。
変わらず権勢は北条氏が維持することになった。
どちらも北条政子の実子だ。
北条氏の権力が決定的になると、今度は「次の北条執権の、外戚は誰?」というのが問題になってくる。
京の都では長年、「天皇の外戚」の地位をめぐって凄まじい権力闘争が繰り広げられてきた。
鎌倉では開府以来、「将軍の外戚」の地位をめぐって上述のような争いが続いてきた。
今度は「執権の外戚」の地位を取り合う血みどろの戦いが起こる。
それが宝治合戦だ。
御家人は殺し合うもの?
三浦氏と安達氏。
ともに鎌倉幕府勃興の礎となった、御家人中の御家人である。
ことここに至って「なんで仲良く出来ないんだ!」なんて言っても鎌倉武士には通用しない。
安達氏の軍に北条氏も加わることになり、けっきょく三浦氏は皆殺しに。
三浦氏の総大将は三浦泰村(みうらやすむら)で、兄弟に三浦光村(みうらみつむら)・三浦家村(みうらいえむら)がいる。
「泰村」の「泰」は北条泰時(ほうじょうやすとき)の「泰」だ。
彼の烏帽子親は先先代の執権・北条泰時なのである。
「泰村・光村・家村」の「村」は当然、「三浦義村(みうらよしむら)」の「村」だ。
時の執権は北条時頼(ほうじょうときより)。
まだ二十代前半の若者であるが、祖父・北条泰時を含め、三浦氏とは昵懇だったはずである。
それでも、安達氏に煽られ、殺し合いが現実のものになってしまうのだから恐ろしい。
なんなら実は草創以来、お互いを「いつか滅ぼしてやる」と思い続けていたのが坂東の武士というものなのか。
史料が少ないのか読み取る力が弱いのか、どうも鎌倉武士たちの騒動は突発的で、それでいて激し過ぎる。
仲が良いだけでは成り立たないのは理解できるし、領土問題はいつだって重要だから、超強力な裁定(暴力)機関が確立するまでは、憤懣を個人個人で、軍事力で表現するしかないのだろうというのは分かるが。
畠山重忠(はたけやましげただ)を騙し討ちした(元久2・1205年)のも、比企能員の変(建仁3・1203年)にしても、どうも「急に殺すことにした」感が強くて、その唐突な決断力と実行力に戸惑う。
そこまで激昂することはないし暴発することもないだろう、と思う。
和田合戦(建暦3・1213年)もそう。
一族が滅ぶか滅ばないかという戦いにまで一気に発展してしまうのはなぜなんだろう。
宝治合戦も「合戦」と名がつけられている。
和田合戦と同じく、御家人同士の、しかも鎌倉市内での戦いだ。
けっきょくよくわからない
年号が「宝治」に変わったころ、鎌倉ではそれなりの怪異が確認されたという。
後付けでそれらの怪異は「兵革」の予兆だとされた。
戦乱が迫っているという天のお告げ、だというのだ。
どうせこれらは『吾妻鏡』にしか書いていない、つまり北条氏側は無理やりこじつけた事象であり、怪異そのものも実際にあったかどうかもよくわからない。
「そんな怪異を呼び寄せた三浦氏だからこそ、滅ぼされたのである。」とでも言いたげなのである。
宮騒動(寛元四・1246年)で恨みを抱いていた三浦氏の急先鋒・三浦光村は強硬派であり、宮様(四代将軍藤原頼経・ふじわらのよりつね)の復権を画策する中で、安達氏による煽りに耐えられなかった。
党首・三浦泰村も、跳ねっ返りの弟を抑えることはついに出来なかったらしい。
客観的には、この「宝治合戦」で「御家人群雄割拠時代」は終わりを告げ、権力は「北条得宗家」に一本化され、「専制政治期」に入るとされる。
古き良き荒ぶるモノノフ時代が終わり、合理的・法治体制とでも言うべき状態になる。
とは言えそれでもまだ鎌倉時代中期であり、ここから歴史は元寇、幕府滅亡、応仁の乱を経験して戦国時代に入っていくのだから、武士を中心にずっと小競り合いを続けていくのだ。
「ちょっとだけマシになった」くらいの感じ。
鎌倉幕府草創期、源頼朝の下で北条ヨシトキと三浦義村は盟友として、親戚として、将軍を支え政治を作り、本領を安堵されてきた。
なのに、孫の代くらいになったら殺し合う関係になってしまってるのだから不思議だ。
権力が悪いのか、気性が荒いのか、はたまた「いつの時代もそういうもの」なのか。



































