第14回「都の義仲」をご覧いただきありがとうございました。
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※配信期限 : 4/17(日) 午後8:44 まで
※要ログイン#鎌倉殿の13人#青木崇高 #秋元才加 #町田悠宇 pic.twitter.com/weoh1uk26C— 2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (@nhk_kamakura13) April 10, 2022
頼朝の最大のライバル、
木曽義仲は、
北陸に勢力を伸ばしていた。
その義仲を討つべく、
平家の追討軍が迫っている。
「大姫がかわいそう」
木曽義仲(きそよしなか・青木崇高)の嫡男・源吉高(みなもとのよしたか・市川染五郎)が鎌倉に、実質的な人質として鎌倉にやってきました。
大姫(おおひめ・落井実結子)との婚儀の約束を、というのが単なる名目だったとしても、幼い大姫の恋慕は本物だったのか…。鎌倉屈指の悲話として語り継がれ、同時に「なんで源氏どうしなのにうまく連携できないんだよ」という、骨肉相食む凄惨さを象徴するエピソードでもあります。ほんと、大姫がかわいそう。
木曽義仲は北陸から京を目指しました。
「京を制圧した源氏が源氏のトップに」というレースだったんでしょうね。基本的に大戦乱のシーンはカットされがちなドラマですけれど、倶利伽羅峠の戦いでの「火牛の計(かぎゅうのけい)」は有名ですね。戦記である「源平盛衰記」に書いてあるそうで、さすが木曽義仲、大胆な奇略で平家を打破した、というイメージ確立に役立っています。戦場近くを今も流れる膿川(うみがわ)は、その時敗れた平家側の兵士の流血でできた…という伝説すらある。
でも、どう考えても「角にたいまつ」なんかつけて、牛が前方に向かって走るとは思えません。
実際には中国戦国時代、斉国の知謀の将・田単(でんたん)が戦で採用したという「火牛の計」の大胆な(めちゃくちゃな)アレンジだったようです。田単は牛の「尾」に火をつけたんですね。それなら、角よりはわかる気がする。その火が燃え移り、燕の軍勢を撃退した。
中国の戦国時代というのは 紀元前403~221年を指すそうです。
あれ…?確か「三国志(横山光輝版)」にも 「火牛の計」って出てきませんでしたっけ。
三国時代は184年の黄巾の乱から280年まで、なので時代がかなり違いますね。記憶違いかな。
とにかく京まで快進撃を続けた木曽義仲は滅法強かった。
迎え撃つはず、の、愚鈍でマヌケに描かれることの多い平宗盛(たいらのむねもり・小泉孝太郎)ですが、「帝のあるところが都である!」という論理のもと、安徳天皇(あんとく天皇・相澤智咲)と三種の神器を携えて西国へ逃げることに決定。平清盛(たいらのきよもり・松平健)が死んでからというもの、平家の統率も士気もガタガタ。
めちゃくちゃ可愛い安徳天皇でしたが、実は安徳天皇には「女児説」があるそうです。そんなことってあるの?
「治天の君」である後白河法皇(ごしらかわほうおう・西田敏行)からすれば武士などは野蛮な飼い犬に過ぎないので、都の治安を維持し、言うことを忠実に聞くなら誰も良いのです。粗暴で野卑な木曽義仲が法皇に嫌われるのは時間の問題…だったのですね。
平家を京都から追い出した勲功は源氏にあり、と後白河法皇がお達しを出しました。
第一には「頼朝」と書いてありました。
鎌倉にいただけの源頼朝(みなもとのよりとも・大泉洋)が第一で、木曽義仲が第二。
実際には書状に本名が書いてあったとは思えませんが、実際に敵を撃破して入京したのは俺だぞ!?と木曽義仲が激怒するのは当然です。
これは「源頼朝が源氏の最高司令官である」と後白河法皇が認めていることを示していますし、源頼朝が実はこの時点で「西は平家/東は源氏」という、実質的な分割統治案を持っていた(平家を完全滅亡させようとは思っていなかった)、という学説を採用してるということですね。
のちに幕府を開く源頼朝ですから、最初から「全国統一」というビジョンを持っていたと思われがちですが、そこのところどうなの?というところですよね。もし最初から「源氏のみで全国津々浦々まで武力制圧じゃ」と思っていたとしても、まずは段階的に進めていくつもりだったのか。
まさか木曽義仲を謀(たばか)るための方便というだけで法皇に提言したとも、思えないんですけれど。
もし本気でそう思っていたなら、確かに「誰が瀬戸内海でそこまで平家を勝手に追い込めと言うたのじゃ」と怒るのもわかる気がする。
それに比べると「平家を滅ぼすことができれば俺はそれでいい」と、木曽義仲は短期的なビジョンしか持っていなかった様子が描かれています。切った張ったの「戦闘」には強く、勝った負けたの「戦術」にも長けているけれど、長期的な「戦略」を持っていなかった。「力の強い者がトップに立つのが自然」だと、ナチュラルに信じている感じ。
京で官位を上げた彼が、そのマナー知らずな行いで笑われる、というシーンが出てきましたね。平知康(たいらのともやす・矢柴俊博・鼓判官)が、牛車から降りた木曽義仲を嘲笑しました。
「牛車には後ろから乗り、降りる時は前から」というマナーがあったんだそうです。
後ろからポンと降りたから、嗤われた。
知らない街へ行ってバスに乗ると「料金は先」とか「後ろから乗って整理券取って降りるときに払う」とか、バス会社によってルールが違って戸惑ったりしますよね。だいたいは雰囲気でわかるし書いてあるし、運転手さんが優しく教えてくれます。第一、嗤われたりはしません。
京で従五位下に昇り、左馬頭・越後守の官職を得た木曽義仲に、京での貴族の基本的なマナーを誰も教えないという、象徴的なシーンだったんですね。つまり、馬鹿にされ「戰が強いだけの猿」だと見下されている、ということです。
ただでさえ平家が逃げて荒廃した京で、食糧難で人がバタバタ死んでるような状況で、さらに略奪や強盗、乱暴狼藉を続ける木曽義仲軍。
そしていつの間にか後白河法皇に取り入っている策士・源行家(みなもとのゆきいえ・杉本哲太)。
後白河法皇はなぜ偉いのか
後白河法皇の院政の、権力の源泉はなんなのか。
院政を行う人は、「天皇族の長」なんですね。
「皇位継承を決定できる人」という立場にあり、これが権威になっています。なので、三種の神器がとにかく大事。源氏や平氏が何千人死のうが、三種の神器さえあればなんとかなる、という感じなのです。
木曽義仲は「あの以仁王(もちひとおう・木村昴)の第一王子、北陸宮を即位させろと主張しました。北陸宮はその名の通り、北陸で父の死後、木曽義仲に匿われていた人物。木曽義仲としては「最後の隠し玉」として懐柔していたのでしょう。
その願いは叶わず、後鳥羽天皇(ごとばてんのう・尾上凛)が即位。4歳。
強行された三種の神器なき即位は、彼に生涯、大きなコンプレックスを抱かせることになったと考えられています。
源頼朝への宣旨には、こう書かれていました。
寿永二年十月四日 宣旨
東海東山諸国年貢神社佛寺並王臣家
領荘薗如元可随領家若有不服之輩者
觸散位源朝臣頼朝可致沙汰不遵制旨
猶令違犯者専處罪科曾不寛宥兼又謀
叛人跡之外者可令停止狼藉蔵人頭左中弁藤原兼光
東国と東山道の支配権を認めるから早く京へ来い、という連絡。
これを書いたとされる藤原兼光(ふじわらのかねみつ)は蔵人頭(くろうどのとう)という役職の人。蔵人という仕事は「令外の官(法律には書いてない役目)」なので、別当システム(法律に書いてある役職の人がトップを兼務する)が採られていたようですが、なにせ帝の身辺のお世話をするという仕事の重要さから、かなりの権力を持っているが故に、官位としては高くない状態の人が任ぜられていたようですね。つまり「偉くなる候補の、エリート候補生が経験しておく重職」という感じ。ちなみに「左中弁(さちゅうべん)」という役職も、エリートコースに乗る人が経験する立場なのだそうです。
後白河法皇の側近とも言える「蔵人頭左中弁」藤原兼光からの書状、という形を取っているので、やはり後白河ー源頼朝ラインの密かな結束が感じられます。
そこで重要視されるのは、あっさり初登場していた九条兼実(くじょうかねざね・田中直樹)ですね。彼ら、法皇を取り巻く、京における凄まじい権力闘争が武士たちの勢力争いにもとんでない影響を与えてきます。
というか武士の激突のすべての原因は、皇位継承に絡む貴族たちの権力争いなんですから。
平家は闘争にうまくコミットして、その揚力を利用して貴族としての地位を得た。それを冷静に見ていた源頼朝は、「そうはならんぞ…」と内心思っているはずです。鎌倉を軽々に動かないのも、その意思表示と言えますね。
後白河法皇の、源頼朝への贔屓・自分への当たりの強さにブチギレた木曽義仲は、なんと院の御所を襲撃、法皇を幽閉。平家と同じことをしてしまうのです。これじゃあ朝敵に認定してくれと言っているものだぁ…。
京へ攻め込む決意をする源頼朝。
「信用できるのは最後は身内よ」と言った時の、梶原景時(かじわらのかげとき・中村獅童)の表情、あれは一体なんなんですかね。源義経(みなもとのよしつね・菅田将暉)との確執はまだ表面化はしない段階ではありながら、猪突猛進・直情径行な危なっかしい源義経との対比。この時すでに、梶原景時は源義経に、なんらかの(しかも相当の)、偏見を含めたなんらかの意図を持っていたのか…。そして、「出兵」とは言え自身は鎌倉を動かない源頼朝。先陣を申し付けた源義経を激励しつつ、その後ろ盾である欧州藤原氏には呪詛を続けている源頼朝。
弓場における「兄弟最後の会話」の通りの「語り尽くそうぞ」は、夢となってしまいます。
そして源義経と、源吉高(蝉の抜け殻)。
これも、同じ悲劇を辿る運命にある源氏の血が共鳴しているシーンですね。
北条が、坂東の武士たちと対立する構図になって来てる様子が描かれていました。
北条氏は「鎌倉殿の身内」という特権的な立場にあるので、御家人たちとの主導権争いが対立構造として勃発するのは必然。それ(vs北条)こそが、鎌倉幕府初期の、止まらぬ血生臭さの原因だったりしますよね。
北条ヨシトキ(小栗旬)はこの時期、その波間を漂って翻弄されているように見えて、冷静に力関係のバランスを計算している。上総介広常(かずさのすけひろつね・佐藤浩一)に策を授けたヨシトキ。
この時のBGMは、鎌倉で今後流れる血の量を表しているかのような不穏さでした。
今回の鎌倉殿の13人紀行は、ここでした。
倶利伽羅古戦場
倶利伽羅神社