・テレビは面白くなくなったか
格段に減った視聴時間からすると、その判断はすでにできなくなってるな、と正直に言えば思う。「見たいものだけを見る」ことができるサービスが増えて、表示された順番にすら読み上げてくれないニュース番組にもどかしさを感じてから数えても、かなりの年数が経っている。「順番など、進捗具合などどうでもいい状態」つまり流し見、または「何か作業をしながら背中で聞いているような状態」つまりBGMがわりについているのがテレビというものの本来の、正しい使い方なのだろう。テレビと視聴者は、番組が面白くなっていこうといくまいと、受信側であるこちらもそれを感じられなくなったりそうでなかったりという相互的な関係にある。ちなみに「(あるタレントを)最近見ない」と軽々しく口にできるのは、「自分の観察範囲以外に興味を持っていない」のに「他人の去就を安易に発声できる」という、単に無神経な人間だけである。
・風水は気になるか
「風水」という言葉が一般的に広く使われ出したのは1990年代である。概念自体はもちろんあったが、風水で引っ越しや家の全てを決める人などほとんどいなかった。「根拠のないもの」ほど「根拠にはもってこいである」という逆転現象は起こり得る顕著な例だ。風水が古代の中国で知識として積み上げられていく中にあって、禍福を決めてその通りに建物を建設できるのは、富裕層に限られてのことだったろう。その歴史は日本でも同じだ。行動を縛り政治に影響を与えた。どちらにしても「地球が丸いということすらわかっていない時代のこと」であり、それをそのまま現代に当てはめて善いだの悪いだのと言っているのは、目の前のことを無視して超常の何かに責任転嫁していると言われても仕方のない振る舞いだ。だがそれを信じて一喜一憂している人が多いのも、事実ではある。特定の宗教団体を「ズブズブ」だの「壺」だのと嘲っている割には、自分の家の台所の位置を怪しげな風水本を睨んで決めていたりして、人間とはわがままなものである。
・人に対する好き嫌いはアリか
生理的に受け付けない、ということはままある。それは単純に「顔が嫌い」から始まり「行儀が悪い」「態度がおかしい」などの理由による。好き嫌いを言ってはいけないとはわかっていつつも、対人における「嫌い」は、不利益や不快を避けるための警報のようなものだから従っておく方が概ね、いい。意外にも、嫌いな人と一緒にいることのストレスは体調をダイレクトに悪くするほどのものだからナメてかかってはいけないのだ。「人を嫌いになる自分なんてだめ」という理由で頑張って我慢したりする人がいるが、あっさり「人間なんてそんなものよ」と割り切って距離を取る方が良いと思う。
・悔いが少ない人生だったか
悔いは「悔いよう」「悔いてみよう」とか思った時に初めて発生する気持ちのような気がする。普段からあの時ああしていれば…と四六時中思っていては楽しい時間は一生現れない。そしておそらく、楽しさを呼び込まなかったことに対してのちのち、また悔いることになる。独房で反省する日々…というようなことでもなければ、自分の行動を悔いている時間などない、と考えるのがやはり楽なのではないだろうか。考えてみれば悔いはあるが、それを考える時間を悔いるのは無駄すぎるので、考えない。
・匿名はズルいか
匿名だからこそ発展する議論はある。誰もが著名ではないし、著名だからこそ展開できない論もあるからだ。そして、だからこそ「匿名は問題なのでは…」という意識を持たれるほど、匿名性を帯びた論戦というものは広がりと奥深さが出たのだろう。それは議論の中身だけに集中できるというメリットを持つ。論者の属性や肩書きによって、内容ではなく追従的な(つまりおべんちゃら)が並んで発展的な議論が阻害されるということが、実社会ではよくある。逆に匿名性の高い議論では、その内容がいかに優れたものであっても、「内容の優れた議論」という範疇を飛び出すことは少ない。メリットとデメリットは両方あるということだ。本来は、匿名が誹謗中傷をする人間の遮蔽物になったり、匿名であることが卑怯、というような扱いになったりするのはおかしい。ネット上にあるのは本来の匿名ではなく、単なる限定的な「匿名性」でしかない。
・バカが嫌いか
バカは誰の中にも潜む要素だ。賢い人の中にもバカは住んでいる。しかし賢い人は、バカを一般的社会通念上、表面化しない程度に抑える・飼い慣らすことを是とする。これがわからない人は「バカの要素が多い」人だと言える。バカの要素が多い人のことを、バカと呼ぶ。
賢い人はできるだけバカと関わらないことを目指すし、バカが今でも普通に生活できているのは、賢い人らのおかげだと考えることができる。このご時世に歩きタバコをし、その吸い殻を道端や排水溝に投げ入れる人間はかなりバカ要素の多い人間(バカ)だが、賢い人はそのバカに「おい、タバコを捨てるなバカ」と言ったりはしない。なぜなら、そういうバカは注意されたことに逆上し、何をしでかすかわからないからだ。なぜそれがわかるかというと、このご時世に歩きタバコをし、その吸い殻を道端や排水溝に投げ入れるような人間だからである。賢い人にはそれがわかり、バカにはわからない。なぜなら(以下ループ)。自室に出たらゴキブリは殺す方向で即座に作戦行動に出る人がほとんどだと思うが、「全宇宙から絶滅してほしい」とまでは思わないだろう。まずそれは無理だとわかるからだし、生き物としてはいても別にいいんじゃないか…この部屋にさえ出てくれなければ…と考えることができるからだ。バカも、それと同じである。
・老後を田舎で暮らしたいか
田舎で生まれた人間としては、さらに田舎、例えば人里離れた山奥とか数世帯しか住んでない離島とか、そういうところで余生を過ごすかどうかと問われたら、「迷惑をかけるだけなので避ける」と即答したい気持ちになる。若い頃なら、地域に貢献できるという意味でも、田舎の良さを享受する側としても、楽しく穏やかに、健やかにすごせる部分はあるだろう。行政サービスとして朽ちていく方向性は止められないとまで言われる日本で、自分(老人)のためだけに若い役所の人が時間と労力を割かなければならないような場所に「終の住処」ヅラで居座るなど、先祖代々の土地であっても嫌である。少し歩けば駅があり、優秀な医者がいる病院があり、24時間開いている商店がある、都会の方が住みやすいに決まっているのだ。老後の「良い景色」「空気が美味い」「のんびり」「季節の移り変わり」のような虚構のノスタルジーは、旅行で味わえば良い。