自論構築過程

「回転寿司のテロ行為」の何が「おもしろい」のか?

投稿日:

SUSHI KAWAII

回転寿司、もう行きたくなくなるレベル

「バイトテロ」が話題になり広く知れ渡ったのはもう10年も前になる。馬鹿とTwitterとの有機的結合をした「バカッター」という言葉は「ネット流行語大賞 2013」の4位に輝いていた。

当時Twitterは「かつてない拡散装置」となり、SNSという言葉とアカウントを持っていく人の数の増え方とともに、さらにその認知度を増していった。

最近では、まずTikTokで「おもしろ注目動画を作る」という目的があり、安易に作成したそれらがTwitterに転載されて不本意にバズる、というルートも出来上がっている。

現在では主に拡散装置としてTwitterが使われており、TikTok利用者がスルーしてしまうようなことさえも、Twitter利用者層が激しく咎める範疇に入る、というパターンもあるように思える。

 

時、すでにお寿司

 

「回転寿司のテロ行為」とまで言われる、動画で拡散された迷惑行為。
大手チェーンすべての店舗に、このリスクはある。

企業側のオペレーション改善や規律改定や周知徹底では防げない。
客側が他の客に対して行なうのだから防げない。

「便利なぶん、みなさんわかってくださってますよね。マナーがありますよね」という前提を組み込んで提供されているサービス形態なので、マナーが皆無の人間がめちゃくちゃやることは想定されていない。よって、想定しない限り防ぎようがない。

想定せずに防ぐには「これをやったらそれ相当の被害が自分に降りかかる」事例を広めていくしかない。人を殺さないのは、物を盗まないのは、マナーとは別に「まっとうな人生が終わる」ことが周知されているからだ。それでも、殺人や窃盗はゼロにはならないのが現実である。

SNSで瞬時に情報が広まる社会では、瞬時に非難されることが可能になった。
迷惑行為に対する処罰を受けたり莫大な補償を要求されたりするのは当然あってしかるべきなのでこれがもっと広く知られ、「やってはいけないという当たり前なことはやらない」人が増えることを願う。

 

だがそもそも、外食にはリスクが伴うものだ。

単純に「見ず知らずの家の皿で飯を食う」ことに、不潔感を1ミリでも感じたら外食はできない。

不潔ないたずら動画が拡散するには

1.「不潔ないたずらをする」
2.「その様子を動画に撮る」
3.「その動画をアップロードする」

という過程が必要だが、

1.「不潔ないたずらをする」

で止まってしまったら、誰の目にも入らず、不潔さだけがそこに留まることになる。

今日、入った回転寿司は、15分前に出て行った前の客が、

1.「不潔ないたずらをする」

で止めた席かもしれないのだ。
そしてそんな段階で止まっている状態は、今日も無数にあるだろう。

実はそこまでのリスクがあることを、大手チェーン始めすべての飲食店は基本的には黙っているわけだが、それを防ぐ手立ての多くを先述の「みなさんわかってくださってますよね。マナーがありますよね」に頼っているので、社会のモラルが下がってきたり公然たるマナーを共有していなかったりする人が増えれば、「不潔ないたずら」が増えてしまう恐怖はある。

「何がおもしろいのかわからない」

数多くの批判の中には、純粋な嫌悪感だけでなく「何がおもしろいかわからない」といったものが多く含まれる。

不潔ないたずらを演じる彼らは皆、動画の中で100%、必ず「これっておもしろい」という表情を浮かべており、笑い声を発しており、「おもしろさ」を感じている様子がわかる。

そもそも不潔ないたずらそのものは、やる方にとっても不潔だと思うのだがそれを心配している様子はない。ただただ「おもしろいだろ?」というような笑みを浮かべている。

「理解できない」という言葉じたいは非難するときに使われる常套句だが、「彼らが感じるおもしろさを理解できない」というそのままの意味を、この場合は含んでいると言える。

では、あの「不潔ないたずら」は、果たしておもしろいのだろうか。

例えば、店舗のテーブルに常備してある醤油やポン酢の瓶をナメる行為。
汚いめに合わせる対象が明確でなく、単にマナーの悪さにおもしろみを感じているように見える。
被害を受ける人すらわからないのに、加害行為に及ぶ心理がわからないのは当然である。

あれは「決まりごとを笑いながら逸脱する英雄感」を感じているのだ。
スケールの小ささは別にして、ルールを超え、「やってはいけないことをやってしまう度胸」を競っているのだ。彼らには、常備してある調味料が「公共財」に見えているのであり、それらを「単なる小さな個人」である自分が穢すことに「勇気」を感じているのだ。

その「勇気」は仲間内にならじゅうぶん通用するものであり、その勇気を出して演じた「ネタ」は、彼らにとって非日常性を帯びているので「おもしろい」と感じることができる。
バラエティやドラマや映画に見る「非日常性」を「単なる小さな個人」である自分が演じることで、壮大で価値ある「ネタ」になる。

つまりあの「不潔ないたずら」は、「身内ウケ」の発展系なのである。

「荒れる成人式」も同じ構図だ。
彼らが暴れるのは「公的な式典」であり、気分が盛り上がるのは「公的な行政機関が仕切る日」だからだ。公共の、社会が広く認める場において「単なる小さな個人」が目立ち、アピールできること。大人に認めてもらえるような気分が、社会とのつながりの中で生きているという実感を増大させる。

本当に自分しか持ち得ない個性をアピールしたいのであれば、まったく別の日に自分らでイベントを開催すればいいのに、それはしない。大人がお膳立てしてくれる舞台でこそ、非日常が感じられる気がするというだけのものだ。一言で言えば「幼稚」で済んでしまうことだが。

 

 

善悪の判断ではない

もう一つ言えるのは、彼らは「これはやってはいけない・このラインは超えてはいけない」という判断基準でやっているのではないということだ。

すべて、「おもしろいか・おもしろくないか」で判断をしている。

結果を先に言えば「あれをおもしろいと感じる人はいなくならないのだから、これから先も同様の不潔ないたずらは無くならない」のである。

「荒れる成人式」で式典を妨害したり自動車で暴走するのもやはり同じことである。

善悪の判断が正確に混じれば、あれらをやることはない。
なぜなら「悪い(不潔な)奴が自分の前にいたかもしれない」という想像とともに、それがいかに自分に、周りに長期にわたって悪影響を与えるかが「計算」できるからだ。その意味では「善悪」というのは、利害計算の果てにあると言うことも出来る。

彼らは善悪の計算よりも優先して、「おもしろいか・おもしろくないか」の判断をしている。
彼らにとって「おもしろいか・おもしろくないか」がすべてなのである。

やっていいことと悪いことの区別もつかないのか!と言っても、彼らにはいっさい響かない。やっていいことと悪いことはわかっているからである。

そんなものを判断基準にはしていない。

そして社会のほぼすべての人にとって、彼らの「おもしろい」はまったくおもしろくない。

しかし、同時に「おもしろいか、おもしろくないか」の判断ができない(正確にはおもしろくないことをおもしろいと思ってしまう)ことを、いくら非難しても詮方ないことだとも言える。

改めて言うが、これは「善悪の判断」の話ではないのだ。
「だからと言ってそんなことやっちゃダメでしょ」というお説教は、及ばない領域なのだ。

 

「おもしろい」とは何か

この世の中がおもしろい人ばかりになれば、あの不潔ないたずらをおもしろいと感じる人らは絶滅し、不潔ないたずらはなくなるのかと言えば、そんなことはあり得ない。

なぜなら「おもしろい人」の存在は、「おもしろくない人」らの存在によって浮き上がってくるからだ。おもしろくない人らがいるからこそ、おもしろい人らが存在できる。バカがいるから賢い人がいる、というのと同じである。

そして、どんな人であっても基本的に一番おもしろいのは「身内ウケ」である。
人となりを知っていて、気心が知れていて、共通言語も多く、記憶を共有している。
そういう周囲の人たちと笑い合えるのが、全世界のすべての人間にとって、一番おもしろいのだ。おもしろさは常に相対的なものであり、絶対的な客体として存在することはない。

彼らがあれらの不潔ないたずらを「身内ウケ」の延長として捉えている限り、絶対に撲滅はできない。

回転寿司屋でそれ(完全なる不潔ないたずらの撲滅)を本当にやろうとするならば、全席・全シートに監視カメラ設置、その周知、専門スタッフによる監視、間断ない注意喚起、もし行為があった場合の速やかな通報、社会的制裁が待っていることの掲示、入店時の誓約書へのサイン、身分証明書の提示、などの処置が必要になるだろう。

安心のためにはそれくらいやってくれて構わない、と思うけれど。

 

「おもしろさ」は育成できるか

「おもしろいか、おもしろくないか」の判断基準は、マナーの共有とも似ている話なので、人種や教育、世代の断絶などによって、徐々に失われる危機を社会は常に有している。

そして善悪の判断と違って「おもしろいか、おもしろくないか」は教えることが出来ない。
個人の感覚と、周りの環境によって自動的に組成されてしまうからだ。

教育で「おもしろい人を作る」ことなど不可能なのである。
なぜなら…理由はすでに書いた。
「おもしろい人」の存在は、「おもしろくない人」らの存在によって浮き上がってくるからである。

プロの芸人に育てる英才教育をほどこす、などというのは不可能である。
プロになるだけならなれる。
いっさいのおもしろさもなく仕事も得られないのに「プロの芸人です」と名乗っている人は8,000人くらいいる。それでいいならプロダクションが「養成所」を作ればそれで済む。

プロの芸人にならずとも「おもしろい人」になることはとうぜん可能だが、それは偶然(と言う名の努力を含む)によって出来上がってしまった結果に過ぎない。

ビジネス・コミニュケーションの一環として「笑い」を社員教育に組み込んでいる企業は複数あるが、それをやっていること自体が「おもしろいか、おもしろくないか」の判断ができない人らによって上から強制された「おもしろさ」が果たしておもしろいのかどうか、1秒考えてみればわかるではないか。

あれらは「コミニュケーションスキルを上げると称した抽象的なビジネスセミナー開催で儲けるための仕組み」に過ぎず、「おもしろいか、おもしろくないか」の判断とはなんの関係もない。事実誤認と内容の詐称だ。

「笑いを教えられる」などというのは単なる驕り・思い上がりである。
それを教えられると言うのであれば、社会的地位や名声抜きに実践してみれば済む。
講師をやっている人らが、M-1やR-1で優勝してみてほしい。出来るわけがない。
出来るわけがないことを出来ると言って金を取る人間のことを、一般社会では「詐欺師」と呼ぶことを思い出していただきたい。

少々脱線したが、今後企業側が毅然とした対応を取ったとしても「不潔ないたずら」そのものは無くならない。

絶滅するのは絶対に不可能である。

その鍵は「おもしろいか、おもしろくないか」の判断にかかっているが、結果的にマナー向上につながる「おもしろさ」が広く人口に膾炙した時、少しだけマシになるのかも知れないなと夢想したりするが、それは情報が細かくセグメントされた現在の情報空間では、また難しいと言わざるを得ない。

 

 







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