お金って、誰が発明したんだろう。お金は昔、金属で出来ていた。貝殻や石で出来ている地域もあったらしい。それで、生活に必要なものと交換できることにした。今は、紙で出来ている。金属の価値が、それらと交換できる理由は何か。それは誰かが「そうすることを認める」からだ。誰か、とは国だ。国の信用で、お金はお金として機能する。権威が、それを認めることで役割を果たしている。今、「俺の持つこの石は、その肉1kgに相当する。肉屋よ交換しろ」と言っても、信用が得られない。その石には信用が宿っていないので、何と交換することもできない。金属じたいが持っている価値に依存している時代があった。含有量の減衰と、権威の凋落は比例した。人が得た「信用への賭け」はいつしか、豊かさとともにお金を、金属から紙へと変えたのだ。物々交換しかなかった時代から、お金と物とを交換する時代になって、かなり経つ。なんとなく現代は、「物が欲しいからお金が欲しい」時代から「お金が欲しいからお金が欲しい」時代になったようだ。お金そのものが欲しい。お金そのものに価値がある。いつの間にか、物体じたいには価値のない紙を「集めたい」、そんな欲求が正しいと言われるような時代になった。例えばお金で交換した食物は、体に入って栄養となり、いつまでも自分の身として、共に地獄へ行ける気がするが、単なる「交換用の金属(または紙)」でしかないお金は、死んだらもう、一瞬でさえ自分にとって意味を持たない。大きなお墓や立派なお葬式には使えるが、それは死者にとってではなく、残った生者にとって有益な使い方の一つであるというだけで、死んでしまえば自分にとって、お金の価値は存在しなくなる。無だ。お金が欲しい、お金がもっとあれば、と願うとき我々は、ほんとうは何が欲しいと、何がもっとあればと、願っているのだろう。それをいつも、とらえ直して考え直したい。お金は欲しい。お金は必要だ。でも、お金が欲しいわけじゃないはずだ。お金そのものが必要なわけではないはずだ。お金で買える、何が必要なんだ。お金で交換できる、どんなことが欲しいんだ。その「何が」「どんなことが」のために、お金は使われるべきだろう。だからこそ、本当に自分にとって必要な「何が」「どんなことが」のためには、たとえ悪いことをしてでも稼げればいい、となどということはない。「どんなお金でもお金はお金」ではないのだ。目的は、お金を集めることではない。集めたお金で、何をするか「だけ」が目的だからだ。目的が崇高なのに、集め方が人道にもとる事では、意味がないのだ。お金を自分ではなく、自分の周りの人たちに集まるような仕組みを工夫して作って、周りの人らが自分にじゅうぶんな施しをしてくれる。優しさと友愛を注いでくれる。そんな状態の方が、紙幣を収集し続けるよりも豊かな気持ちでいられそうだ。ただし、お金は物体だ。交換できる価値として貴重な扱いをするからと言って、物体としてのお金(貨幣・紙幣)そのものに価値がないわけではない。価値にしか注目せず、金属片や紙切れであるお金をおろそかに扱うことは、物体を粗末に扱うのとやっぱり同じことなので、もし「ばち」というものが当たることがあるとするならば、やっぱり覿面(てきめん)に当たる気がする。価値を気にしながら、その本当の使い方の価値にも注目する。この二重の構造こそがお金が持つ魔力の正体の一部だし、これからもし仮想的な通過が増えて物体としての貨幣・紙幣が消え去っても、その価値の担保はどこかに存在するだろう。「電気自動車だけになる」とは、どこかの発電所で一括した発電量が莫大に増える、という意味であるように、手元のコインやキャッシュが消えたら、やっぱりどこかにその信用は集中するのだ。その信用を個々に分散することはたぶん、まだ不可能なんだと思う。その背景には、実は「恐怖」や「震撼」が控えているのではないだろうか。お金は発明だ。それ以上の発明は、起こるだろうか。