毎日起こるつらいことや悩み事など、宇宙の壮大さに比べるとちっぽけなものだ。確かにそうらしい。例えばスマホが壊れたどうしよう、くらいの10cm程度の問題は、地球の数千倍、数億倍もある星を思い浮かべながらだと、うまく処理できない。どうでも良くなる。宇宙はかなり大きい。大きさでは表せないくらいに大きい。ただ、大きすぎて、本当にどこまで大きいのかがまだわからない。「大きさ」というのは、「小ささ」とも言える。大きいや小さいは比較でしかないから、宇宙は、宇宙より大きいものに比べたら多分小さい。だけど観察者はちっぽけな人間だから「宇宙は大きい」と言わざるを得ない。大きいというよりも、大きさがわからない、というのが正確だ。ひょっとしたら地球を飛び出して月を超え、銀河を超えてはるかに何百億光年を超えて、暗幕のような壁を突き抜けたら、生物が持っている細胞から飛び出してくるかもしれない。人間には37兆個あると言われる細胞一つ一つにある核、それぞれがそれぞれに、この広大に見える宇宙を抱え込んでいる存在だとしたら、大きいと思っていた宇宙は、極小なものだとも言える。すべての細胞や物質を形作っている、宇宙中の原子の中に一つずつ、この宇宙が収まっていると考えたらどうだろう?宇宙の始まりはゼロ・サイズだったらしい。そこから宇宙は始まったと。では「その前」は?時間さえなかったような状態を、人間はたぶん、理論以外では知覚することができない。宇宙がどうなっているか、は科学技術や理論の進歩で、解き明かすことがじょじょにできるかも知れない。でも、「なぜ宇宙があるか」の答えは、出すことができない。その解釈をそれぞれに付け加え、創造することはできるが、「宇宙が存在する理由」は、そこに暮らしている人間にとって、知ることに意味が見出せないから。知っても仕方がない。宇宙が存在する意味は、永遠にわからない。そう思うと、この宇宙に存在することがらについて「それが存在する理由」は、「わからない」としか言いようがないんじゃないだろうか。なにせすべての基本である宇宙に理由がないんだから、そこにある地球の、存在する意味がわかるとは思えない。ただあるから、ある。理由などわからない。地球にある陸と海、存在する理由は?と聞かれても、理由などない。動物、植物、鉱物がいる意味は?意味なんかない。気候が変動するのも、地殻が動くのも、公転軸がぶれるのも、イナズマもプラズマもオーロラも、現象の説明や原理の解明はできるが、理由はわからないし意味なんてない。なのに、人間の暮らしには意味があって、人生には理由がある。あるように感じる。悩みや試練には意味があって、つらさや苦しみには理由がある。あるように感じる。そんなわけがないではないか。理由なんかないのだ。意味なんかないのだ。なにせわれわれは、宇宙に浮かんでいる星に、こびりついて蠢(うごめ)いている、ちりともあくたとも言えるような、取るに足らない存在だ。地球が浮かんでいるということすらも主観的によくわからない。それは、あたかも蟻が、自分のテリトリー以外を理解できないのと同じだ。あたかも魚たちが、山について、ついにわからないのと同じだ。ただ、わからないから、意味がないから、理由がないから、すべてを投げやりに、めちゃくちゃに、破壊的に生きていいということではまったくない。なにがどう展開しようとも、我々の生はちっぽけで、取るに足らなくて、それでいて全力で駆け抜けるべきものだ。それは、あたかも蟻が、ほんの数週間の命を、できることの全てに捧げて生ききっているように。あたかも魚が、山のことはわからないが海のことには全身全霊を捧げて生ききっているように。この宇宙では、変な期待をしないことが、上手く生きて死ぬコツなのだ。
宇宙
投稿日:2017年12月30日 更新日:
執筆者:Tokuda_Shinya