個性という言葉は、「個」と「性」に分かれる。この場合の「性」というのは「…が持っているもの」と言い換えることができると思う。それそのものではないが、それを表すことができるもの。男性といえば「男…が持っているもの」。「男、を表すようなもの」とも言えるか。男が持っている性質であったり特徴であったり、男の「肉体や物質」というよりは、「本質の表れ」として浮きぼりになるもの、及び「長らくそう語られてきた、精神や概念」と言えるかも知れない。最近は「男性」が「男」と同じような意味で使われすぎて、「男の持つ性質や特徴」を表現するのにわざわざ「男性性」なんていう言い方がされている。「女…が持っている性質」を「女性」と呼んでいるはずだったが、わざわざ「女性性」と言い換えている。ニュースでは被害者は「女性」で加害者は「女」と切り分けられる。まるで被害に遭うということそのものにあいまいな「女性性」があり、加害する場合にはれっきとした「女」という自覚があるかのように聞こえる。「合理性」は「合理、が持っているもの」、「重要性」は「重要…が持っているもの」。実際にはちょっと違うニュアンスもあるとは思うが、要するに「個性」と「個」は違う、ということを、今は言いたい。「個性」と「個」は違う。だからいくら「個性」を重要視しても「個」とは深く関係がない。個性が大切、なんてごまかしを言わずに、「個」を作れ、と言い切ればいいのに。厳密には「確固たる個を築け」ということか。いくら「個性的な服装」をして、「個性的な風貌」を装っても、「個」は揺るがない。どうしようもないのが個だ。まったく同じ学生服を来て、まったく同じ丸坊主になって、どうしようもなく出るのが「個」だ。そこから奇抜な服に着替えて、奇抜な色に髪を染めて、オシャレな街を跋扈してオシャレな店に跳梁しても、学生服の、丸坊主が「個」だ。個性より、気にすべきなのは個だ。揺るがない、入れ替えの利かない、ゲタを履かせられない「個」に、自分は何を求めるべきなのか。自分ではどうしようもないのが「個」だから、その「個」が自分で気にいるかどうかはわからない。優や劣はない。それくらいどうしようもないのが「個」だ。善も悪もはない。だから、それぞれにあるはずの、入れ替えようもなくかけがえのない「個」が持っている性質、これをなんとか誰かのものと入れ替えたように振るまってとりつくろうのが「個性」かもしれない。個性が大事、なんて言われても、それを言うあんたの個はどうなんだ。でっぷり肥えて、アブラぎってるわりには眼窩はくぼんで眼球は濁り、開いた毛穴で偉そうに言うだけでなんら努力も改善もしない、それがあんたの「個」だ。「個」は、自分自身が自分自身に過ぎないという証明にしかならないので、「個…が持っているもの」と思ってもらえるように、服装を変えて見たり、作品にしたり、言葉にしたり、「生き方」なんて気取ってみたりしてるんだな。
「僕のヒーローアカデミア」いう作品では、人類の8割に「個性」と呼ばれるなんらかの特殊能力が付加した世界が描かれている。個性がない残りの2割の人は「無個性」だ。確かに、呼吸してない状態は「無呼吸」だから、表現としては間違っていないと思う。個性がないから無個性。呼吸するのは当たり前だから、それがない場合には「無」をつける。フィクションの世界では「個性がある」ことが当たり前であり、存在を底上げするプラス要素として扱われる。本来プラスであるはずの能力を、ネガティブに使うからこその「ヴィラン(敵)」がいたりもするのだけれど、自分の持てる才能と努力のリソースを犯罪に全振りする人がいるのは現実社会でも同じだ。社会の敵だって自分の(社会からすれば迷惑な)目的のために、プラス要素として「個性」を使っていることには変わりはない。すでに書いたごとく、「個」の上に「…を表すようなもの」として上乗せしているのが一般的な「個性」と呼べるが、「ヒロアカ」の中でも、やはりとても重要なのは、「個性(この場合は作品中の特殊能力のこと)」を操る、登場人物たちの「個」なのだ。彼らが本来持っている「個」が、個性を良くも悪くも、伸ばしも縮ませもする。「個」はコントロールできないが、「個性」は制御できるのである。自分の上に、どんな性を、試し試し、恐る恐る、上乗せしていくか。漫画の世界のように、個性は固定していない。人によって場所によって年齢によって、変えていけばいい。それらが自分を喜ばせ、周りに害がないのなら、どんどん変えていけばいい。