意見なんてない。普通はない。何かについて「何かご意見は?」と言われても、意見なんかない。意見を持つには、それについてあるていど知っていて、比較する対象のことも知っていて、それがいま適切かどうか、どういう意味合いを持つか、そしてこの先どうなって行くか、のうちのどれか複数が同時に脳内にないと出てこない。砂糖を舐めて「甘い」というのは意見ではない。それは意見のように見えるけど「感想」だ。感想が悪いわけではない。意見を持っていないことが悪いわけでもない。でも、意見を持っているかのごとき態度で感想を述べる、というのはわざとだろうがわざとでなかろうが、なかなかの害を自分にすら及ぼす場合がある。なんに関してでも意見を持とうとすれば、なんに対しても常に知ろうとする態度がなければならないし、比較する対象についても知らなければならないし、それがいま適切かどうか、どういう意味合いを持つのか、そしてこの先どうなって行くか、さらにそれを自分ならどう変えていけるか、ということを用意し続けないといけない。少なくともそういう希望を持っていないといけない。ご意見番、という言葉を聞くことがあるが、これらの要件を満たしている人はものすごく少ない。勝手にご意見番と呼ばれているだけなので本人としては批判される筋合いもないだろうが、その都度、反射的に常識にてらして感想を述べているだけなので、あれは「ご意見番」ではないのだ。意見は、誰かとぶつかる可能性がある。知識や下地になる思想が異なれば、意見が違ってきて当然だからだ。意見は作り上げられたもの、練り上げられたもの、組み上げられたものなので、変化もするし、向上もする。砂糖を舐めて「甘い」に異論は存在しないし、変化もしないし向上もしない。常に一定だ。意見は、いつしかほろほろと崩れて流れてしまうこともあるし、また出来上がってきて熱を発することもある。意見を持つ、というのはそれだけで、自分の精神や感情に対するリスクをともなうことであるし、それを自分の外に発表しようとすればさらに、大きなリスクにつながることでもある。ただ、意見を述べて取ったリスクは、その意見への同意や反論を得て、また内的な成長を促すための、大きな効果につながることがある。「自分はこう思う」というのは「いや、それは間違っている」と言われるリスクと常に隣り合わせだし、「ヤッタァ!同じ意見です!」という友好の士が現れる可能性も秘めている。どちらにしても、「常に意見は変化する」と思っていないと、固定したまま一生動かないなんて決めつけていると、ひどく傷つくことになる。自業自得だ。意見は常に微動し、向上し、変化するものだ。そのためには「考えるためのツール」を脳内にいくつも持っておく必要がある。「意見生成虫」を脳内に飼っておく必要がある。あらゆる事象がその虫に食われ咀嚼されるうちに新たに組み合わされ、自分の意見となる。意見が一つも浮かんでこない…と思う時は、この「意見生成虫」が脳内に一匹もいないか、「意見生成虫」が食う材料が1グラムも脳内にない、ということなのである。何度も言うが、砂糖を舐めて「甘い」は意見ではない。
意見
投稿日:2017年12月16日 更新日:
執筆者:Tokuda_Shinya