自論構築過程

「聖地巡礼」に関する勝手な違和感[破竹]

投稿日:2017年5月29日 更新日:

「聖地巡礼」はそもそも宗教的な意味合いを持つ、重要な聖なる行ないの一つ。

例えばイスラム教なら、聖地とされているサウジアラビアのメッカ。
ここは、教祖ムハンマドの出生地としてハッジの対象になっており、この聖地を訪れることは、イスラム教徒に課せられた「5つ義務」の一つです。

具体的には、カーバ神殿を目指す、んだそうです。

カーバ※カアバ神殿。wikipediaより。

カーバ神殿(iPhoneには絵文字として入ってる!)の四方には「黒い石」が据えられていて、これはさらに昔、イスラム教誕生以前にアラブの地で崇められていた女神の御神体、だったそうです。

一説にはこれは隕石。
この黒石に触ると、イスラムでは幸福が訪れる、とのことです。

「月からの隕石」という伝承のあるカーバの黒石。
イスラムでは、教祖ムハンマドは一回空に登って、神々や先祖と話をして降りてきて、それがイスラムの教えの元になっている、とか。

宇宙との繋がりが、「隕石」を通して具現化されている(ように見える)というのは、興味深いところです。

 

さて、いま、日本で「聖地巡礼」と言えば、「アニメの舞台を旅する」という意味だったりして、本来の意味に比べると随分のんびりして聞こえますね。

アニメを旅する若者たち “聖地巡礼”の舞台裏
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3171/index.html

決して、それはアニメとは限らないですけどね。
かの「冬のソナタ」の韓国ツアーもそうだったでしょうし、「シン・ゴジラ」を見て「蒲田→鎌倉→丸子橋」なんてコースを無理やり回るのも、「聖地巡礼」でしょう。好きなアーティストの生誕地やアトリエ、文豪の生家なんかも「聖地」と呼ばれたりするでしょうし、もちろんそこには、そもそも「宗教的な聖地、という言い方、神聖性を模した、ある種の諧謔」的な言い回し、というニュアンスが乗っかってたんだと思います。

今は、アニメを町おこしの一環として「舞台」として誘致して、「聖地巡礼」に来てくれるアニメファンを観光客として迎えよう、という施策も割とあるんですね。

考えてみれば、毎年のNHK大河ドラマ、の舞台に選ばれたりでもしたら、さらに主人公の出身地、活躍した本拠地、ともなればその町は大賑わいです。でもあまりそれを「聖地」と呼ばれたりしないのは、大河ドラマは日本の時代劇ですから、そのぶん「うん、史実的に、聖地はちと言い過ぎ」な感じがダイレクトに伝わってくるから、でしょうか…。

そこが聖地だとしたらその人に殺された何万の人間はどうすんだべや、みたいな、割と地元ですら受け継がれている気持ちが怨念化する、みたいなのも、あるかもしれない。

だからこそ、「聖地」は宗教的な言葉だと言えるわけですけども。

NHK大河ドラマで「キリスト物語」とか「ダビデ王、燃ゆ」とかやったら、日本からのエルサレムへの観光客(巡礼者)は増えるんですかね。
もともと引きもきらない観光地ですけど。

この、上掲のクローズアップ現代の書き起こしを見るまでもなく、もはや観光地が「聖地を作ろう」ということでアニメ頼りになっている感じは、そこはかとなく伝わってきますよね。

地元の特産品や、イベントのポスターに「萌え絵」を使う、みたいな。

物語の舞台にすれば、それはもう永久固定ですから、アニメの人気が観光客数の増減に比例する。

 

ちょっとだけ、気持ち悪いんです。

安易に誘導している感。
それに釣られてあげて、でも本当に誘導されて「ここだ!ここだ!あっここだ!」ってやってる感。

アニメなどの創作の舞台は、「どこか」、ですよね。
「ドラえもん」の舞台だって、東京?のどこかの街っぽい?けど、地方?みたいにも?見える。
でもそれはいわゆる「相似」で、日本のどこにでもあって。言ってみれば「時代」が舞台、という感じ。

あれが、「あの電柱の角度と、あそこに郵便局があるのは東京練馬区の○○町です!」みたいに、決めてしまうことに、何か喜びってあるのかな、と。

創造の舞台は大げさですけど、いったんこの世にあるものを全て取り込んで、一回ミックスして平坦化し、再度「それらしく相似に」設定してあると思うんです。

実在の地名を出さないとリアリティがない、ということはない。

「それらしいどこか」がちょうどハマるのは、「どこ、とは思いたくないが、あそこっぽい、という感じはわかる」ということを、舞台設定として必要とするからなんですよね。

だから、物語に出てくる舞台は、もし地名が実在しても、モチーフとしては実在の場所でも、「その場所そのもの」ではないんです。

「どこか」なんです。
だって登場人物は「誰か」なんですから。

そこを「ここが舞台かぁーっ!ここで、まさにあの人たちが…」なんて感動するというのは、どうも気色が悪い。
気色が悪いというのは言い方悪いですが、え、そこって感動するところなの!?と、違和感を感じるんです。
居心地が悪い。。

よく、「現実と架空の区別がついてない」なんて批判的な言い方をされますが、どうして架空の物語に出てくる舞台に、実際に行きたいのか、あまりうまく理解できません。

 

世界をぐるっと一周して「おかしい」。

例えば(アニメじゃなくて)映画でもそうですけど、物語の中で、俳優の名前が出てくることってありますよね。確か「オーシャンズ12(だったかな)」で、ジュリア・ロバーツが、女優・ジュリア・ロバーツに成りすます、という場面がありました。

いや、いいんです。面白ければ。
いいんですけど、実在の名前を「実在する」として登場させると、じゃあ、ジュリア・ロバーツを知ってるお前ら(中の人ら)は、ジョージ・クルーニーのことは知らないわけ??いやブラッド・ピットもいるぞ!?マット・デイモンも!っていうことに、なるんです。

おかしくなる。ぐるっと回って、おかしくなる。

2006年の「古畑任三郎」。
「フェアな殺人者」というタイトルで、イチロー選手が登場しました。犯人役。話題になりましたよね。
…イチローが、実在するイチローとして登場するとなると、そのイチローは、田村正和という俳優がこの世にはいないという前提で、そこにいることになる…。

あの物語で生きているイチローは、田村正和の、存在しない世界で生きている。

だって本当のイチローなら、前から「ぅんふ〜古畑です〜」と言って黒いロングコートの人が近づいてきたら「あっ!!!田村正和だっ!!!」って思うはずですから。

やや話が逸れましたが、そもそもは「モデルとなった場所がある」が、「聖地という諧謔」の、潔さだったような気がするんですよね。
類型として、学校というのはこういう感じということで、モデルとなる原型を拝借した実際の学校があったり。街もそうです。

そこからの類推と想像力で、ああ、ここがそうなんだな。と遠くから楽しむ、というのは節度としても創造へのリスペクトとしても、良いなぁと思ってたんです。

今や、「ヲタが群がってきやがるぜ」とばかりに、自分らの街を「聖地化しよう」などという、ちょっと浅ましい、ミもフタもないやり方で逆算して作られたりしてるんですね。

それって、町おこしですかね?

 

でも、です。

上に挙げたようなイチロー、ジュリア・ロバーツの例も、「わかってて見てる」ことに変わりはないんで、異色なアイデアとしては、全然アリ、だと思うんですよ。

でも基本的には、物語を楽しむ「背景」であるはずの舞台設定をまるでその作品の中軸を担保するものとして利用しようとする、そのやり方には、やはり少し、違和感を感じるなぁと思うと同時に、「なんで物語に出てきた場所に、そんなに行きたいのか」というのが率直に個人的に、よくわからないんですよね…。

 

 

 

 

 







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