田舎の川を撮りました。
なんてことのない、長い信号待ちの間に、窓から。
何十年か前には、夏にここで子供達がザブザブ遊んでたんでしょう。
そう言えば自分も、子供の頃にはこういう「ちょっとあんまりものすごい清流でもないよ」っていう汚い川を、どんどん平気で進んで行ったりしてました。
奥に見える、幹線道路の下を、真っ暗な暗渠(あんきょ)の中を、どんどん進んで、「うわぁ!ここへ出るのかぁ!」とかいう探検ごっこやってました。
それなりの大きさと鋭さの「剣(木の棒です)」を持ったりして。
今、もし小学生らがそこへ入って行こうとしてたら「危ないぞ!」って誰かが止めるんでしょうね。
昔は良くて今はダメ、ということを言ってるのではありません。
昔だって、「危ないぞ!」だったんです。
多くのことが、今の方がいいに決まってます。
よく耳にするのは、「今の時代、失われたものが多い」という類のこと。
「現代は便利になったが、そのぶん、大切なものを失っている」式の、「今はダメだが昔はいい」という主旨のこと。
遅く生まれた人はもちろん、前のことは知らない(知りようがない)わけですから、「そう、です、ね…ぇぇ」と、聞くしかない。
「今の若い者は…」式の嘆息も、すでに紀元前からあったそうですから、若者が歳をとり、また若者を嘆く…というのは人類の、永遠に続くルーティンなのかもしれません。
もちろん「現代は便利になったが、そのぶん大切なものを失っている」は、一面は真理だと思います。
大阪ー東京を2時間半で移動できるとなると、昔は10日かかって歩いてた時代とは、途中に起こるドラマの濃密度が違うでしょう。
生涯におけるドラマ比率が変わるわけですから(2時間/80年←240時間/80年)、記憶量と、それを元にした人生観にも影響する。
その代わり、一つのこと(この場合は移動)にかける時間が減ったっていうことは、「寿命が延びた」と考えることも可能ですよね。
昔は、「あれ?これってどういう意味?」と思ったら、図書館へ行くとか、文献を当たるために調べに行かなきゃならなかった。
まぁ、3時間4時間、ややもすると一つの景色を見るために、一週間かけて出かけて行く。
今はスマホで「検索」1秒、です。
ということは、生命体として生きるのは同じ80年だとしても、その中でできることの量は、飛躍的に増大している。
人生の内容が、昔は一人ぶんしか生きられなかったのに、今は何十人ぶん、何百人ぶんもを生きることができている。
そう言うことが可能です。
でもこれを「情報量の多さに溺れる」と言うことも出来るでしょう。
さて、どちらに、与(くみ)して生きていきますか?
人間は、洗面器いっぱいの水でも溺れることができます。
でも、通常は、洗面器で溺れる人はいません。
フグの毒(テトロドトキシン)は1gで500人の致死量があるそうですが、いくらてっちり屋が繁盛しても、年に3万人とか10万人とかが死んだりはしません。
取り扱いの悪さを、そのものの性質のせいにするのは間違いでしょう。
「昔は良かった」は一つに表現にすぎません。
今の素晴らしさを享受しながら、動きたくない、学びたくない、でも偉そうにはしたい、と言う欲望を満たすために、絶対に覆らない「年齢差」のみを元手に説教しようとする。
そういう言説を、見抜かねばなりません。
そして最近、多くの先輩方が、見抜かれ始めているww
古代エジプトでピラミッドを人力のみ建てたのは、「人力のみしかなかったから」であって、今、どこの資産家もアラブのサウド家ですらピラミッドを建てないのは「人力しかないから」ではないんです。
ピラミッドを作る、と言う価値観が、もう無いんです。
それは、旧(ふる)くを知る人には嘆かわしく映るかもしれない。
でも、そもそも悲しいんです、時代の変化というのは。
新しいものに触れる喜びで、古いものが廃れていく悲しみをごまかしていく。
まるで新しく生まれた命で、死者の弔いが終わるかのように。
あの川を見て、もう遊ばれることのない現況を知り、そうやって全てがじんわり、気づかないうちに変化していってるのだな、と感じた次第です。
そしてどこからか漂う「牛、飼ってる?」な匂いにも、刺激されたのでありました。