老害: 子ども世代は逃れられない (日本語) 単行本 – 2011/9/5
老害、って言葉は、あまり使いたくないですねえ。
老は必ず、遍く訪れるもの。
短絡な誤解が増えて、「老=害」だと思われてしまっては、大きく何かを見損なうというか、実質的にも損なうものが大きい気がします。
老害の反対は「若害」なんですかね。
「害」の反対が「益」だとしたら、「若益」というのがあるのかな。
若益
↓
若害
↓
老益
↓
老害
の順番で価値が下がっていくのか…。
健康であればあるほど(「病」でなければないだけ)寿命は長くなり、老は確実なので、「老なれど害ならず」を目指さなければなりません。
生老病死(しょうろうびょうし)。
死と病、老や生すらも、「苦」であるとお釈迦様は看破しました。
「人間が避けることのできない、この世にある4種の苦悩」。
え、「生きる喜びって言うじゃない?」とも思いますが、実は「生まれてくること」がまずは苦しみの発端なので、究極的に救われるには「もう生まれない」というところを目指す必要がある、ということですね。それ(もう生まれずに済む方法)を知る、ということが「悟る」ということなのでしょう。
だから「極楽浄土へ行きたい」なんて言ってると、それはもう「苦しみ続行コース」を望んでるのと同じなんですね。その次も苦しみは続きますから。そこんとこは宗派とか、色々違うんで一概に、悪いとかダメとかとは思わないけれど。
「生」すらも苦しみなんですから、老なんて苦しみです。
だけどもうそれは、今言ってもしょうがない。さらに「どうせ苦しいなら死んでしまえ」と、そもそも苦しみのひとつである死を、自分で選んでもしょうがない。自分で死んでしまうと、自分の、論理の力で、「もう生まれない」というところへ到達するための努力ができないので、結局同じ苦しみのスタートラインに戻ってしまうんですよ。無駄です。
老はただそれだけで「苦しみ四天王」に入っているというのに、その上まだ「害がある」なんて言われたくない。
では老害にならないためには、何に気を付ければいいんでしょう。
まず認識。
その次に思考。
そして言動。
この順番で、「老なれど害にあらず」へたどり着けるはずです。
自動車の教習所では
「認知・判断・操作」というのを習いました。
・認知/認識
これは、まず「今あるものは、昔より素晴らしい。昔より今の方が素晴らしい。」と、認めることでしょう。
そしてただ、今の流行や常識に対して、批判・非難する気持ちを浮き上がらせないこと。
なかなか、できることではありませんよね。
流行が直撃した世代、その時代にはその時代に「これぞ本流」という意識が芽生えてしまいます。
経済的な発展があった世代、苦労が多かった世代、などいろいろ。
「若いうちは苦労は買ってでもしろ」と言いたくなるのも、その辺りの認識から来るのでしょう。
ではあなたがもう一度、若い時に戻れるとしたら、同じ苦労をお金出して買いますか?と聞いてみたい。
・判断/思考
今あるものについていく必要は、ないと思います。
「今」は刻々と動きます。
今、ここに「今」と書いた瞬間に、もう今ではない。
目の前に、ほんの一瞬だけ、紙よりも薄い「今」が通り過ぎていく。
我々はいつも、昔の記憶を頼りに、未来の不安を人質にされて、「今」を犠牲にして生きています。
それはあまりにももったいないので、「そういう時もあったよね」と「自分の今」を、できるだけ多く記憶しておくことが大事です。
「今」の集積が過去になり、そのてっぺんのことを未来と呼ぶならば、未来のことを考えすぎることは、過去にこだわるのと同じくらい、愚かなことです。
「あなたの今」について聞かれた時、過去や未来を引き合いに出さない覚悟があれば、老害への道は狭くなっていると考えて良いでしょう。
・操作/言動
重要なのはここですよね。
Twitterで、リプがたくさんくる。
Facebookで、コメントがたくさんくる。
これを論破してみたり阿(おもね)ってみたりすることで、承認欲求を満たしている精神的ご老体(まだそんな歳でもなかろうベテラン)が散見されます。
これを「ソーシャル躁」と呼んだりすることもあります。
反応があり、コミュニケーションが取れることが嬉しくてしょうがない。若い人も返事はくれるしスタンプもくれるし、かまってもらってるだけなんだけど「いろいろ教えてあげれられます豊富な人生経験で」という態度がアリアリになってしまってる人。ジジイにもババアにもいます。
なんとか現代的なツールについていって、見事に使いこなしてはみたものの、その潜在的・旧態依然としたパワハラ体質は消しようもなく、極端に言えば「断りなしにフォローを外すとはナニゴトか!」的なプレッシャーが通じる界隈を形成していたり。
インターネットを使いこなしているなら、まだ良いですよね。
とにかく、修正・矯正の機会があるから。
「ネットの世界はわからん」と堂々と言い放つ40代50代って、マジでいますからね。
そうなると、たとえ歳下でも「老害道を突き進んでらっしゃる」と言えると思います。
「わからん」ことは、いつだってあります。
その「わからん」ことに対して、どういう姿勢を取るか、が本当に重要です。
正しい順序は、こうでしょう。
わからないことは、知ればいい。
↓
ちゃんと知るには素養がないといけない(ということもわかるにはちょっと勉強する必要があったりする)ので、「わかる人」への尊敬を持つ準備をする。
↓
教えてくれる人への尊敬を抱きつつ、真摯な態度で学ぼうとする。
これしか、あり得ないと思います。
「わからん」と早々に言い放つ人には「ややこしい方が悪い」「わかりやすく伝えない方が悪い」「それを理解できるように教育しなかった教育者が悪い」「バカに生んだ親が悪い」と思ってる人が、ほんとにいるんです。わりとたくさんいるように思います。
バカがたくさんいてくれないと「あの人が賢い」というのがわからないので便利なんですが(そんな言い方)、現時点で「わからない」ことに対して「自分は1ミリも絶対に悪くない」というところからスタートするので、理解がいっさい進まないんですね。進むわけないです、進めようとしないんだから。
方向違いのバスに乗ってしまったのは表示が分かりやすく書かれていないからだ。案内する係員もいないし、黙っていてもわかるように促すべきだ。自分は客だから。料金の返還と、このまま自分の目的地へ直行してもらいたい。
これを「先輩を敬うべし」という空気で言い出すとなると、これはもう「老であり害」だと言えるでしょうね。
あっ、方向違いのバスに乗ってしまった!表示をちゃんと見ていなかったのがいけなかったか…この老眼鏡では見る気が起きないから、ちゃんとしたのを買いなおさないとな…次のバス停で止まった時に、運転手さんに聞いてみよう…迷惑がかからないようにどこかで降りて、反対方向ならそちらのバス停へ移動して待つか…いやいや、ちゃんとした下調べをしておかないとこういう目にあうんだな…参った参った、あ、混んできたから早めに降りるか…。
こういう感じが死ぬまで続くなら「敬うべき先輩」として扱われて当然だし「老なれど害にあらず」と言えるでしょう。
新しいことを、どんどん取り入れる必要はないと思います。
「今までの判断基準は間違っているかも知れない」ことを念頭に置きつつ、指摘されたら「そうなのか」と真摯に反省し、その判断基準についてはもう使わないようにして、自分とは、まったく違う意見を、ただただ素直に流入させればいい。
若い人に、やたら勝とうとしない。
「教える側だ」とか思わない。
「歳だから」を、開き直りにもいいわけにも使わない。
これらに気をつけていくしか、ないですね…。
「そういう世代だから」「そんな時代だった」は、自嘲用に使うだけなら良いですが、「だからお前らは甘いんだ」なんて言われても、言われた方が困ります。「生まれたからネットがある世代が〜」なんて言われても、そういう世代の人は自分で選んでそんな時代に生まれたわけではないので「そうですねえ」としか言いようがないですからね。
選べるなら、あんたと同じ時代に生まれて勝負してやったけど??とか、後輩は言えないから。
すでにそこに、パワハラ的構造が隠れてたりしますよね。
老害的な老人になっていくには、そういう「パワハラ的構造の中で勝ってきた」という厄介なパターンがあります。
歳とるだけで馬鹿になるわけではないはずです。
「老だから害」ではない。
「若で害」もいっぱいいます。
「老で益」も、もちろんたくさんいらっしゃいます。
自分が害であることを「老」のせいにしてるのが一番の老害じゃないかと思えてきた…。
ほんと、生はしょうがないとして、病をなるほど老になり、どんな死かはわからないけどできるだけ、「益」な感じで長く過ごしたいとは思いますね。
周りにいる「老」、身近な「老」、街で見かける「老」の中にある「害」と「益」、その分量は、「認知・判断・操作」の回数で決まってくる、と言えるかも知れません。
かんたんに言えば「お前ごときが、若者に説教できると思うなよ」ってところでしょうか。
…とは言え、そういう、「俺は若者側に立てるおっさんだぜ!?」みたいな態度も、そこそこ鬱陶しく鼻についたりするんですよね…難しいところだ…。
ちなみに私が使ってる老眼鏡はこれです。