「不動坊」という噺には、罵倒表現としての「不思議で凝った言葉」がたくさん出てくる。
1、ワニ革の瓢箪みたいな顔
罵倒語としてわかりやすい。
ワニには申し訳ないが、荒れてるのかそういう肌質なのか、
事実と違う、または大袈裟にそう言われてしまってムカっとくるのはよくわかる。
見た目でまず人を罵倒するのに「◯◯みたいな」は有効だ。
しかも「そんなものはない」という代物を比喩として持ち出されると、第三者にはおかしく聞こえるものだ。
鰐の皮で出来た瓢箪、などというものが存在するのだろうか。
もしかすると鰐=鮫、か。
古代、日本ではサメのことをワニと呼んでいたらしい。
爬虫類のワニは日本にはいないが、いつしかサメを指していたはずの語が、現在のワニのことを表す言葉になった。
と考えると、「サメ革の瓢箪」ならありそうな気がする。
ワニ革ほどではないにせよ、ザラついた感触が罵倒するにはふさわしい、と言えなくはない。
2、鹿の子の裏みたいな顔
鹿の子(かのこ)ってなんなんだろう。
この言葉は、「かもじ鹿の子いけ洗いの裕さんは鹿の子の裏みたいな顔」という風に使われる。
「かもじ」「鹿の子」を「いけ洗い」する仕事があったらしい。
「いけ洗い」というのは、着物をほどき、反物の状態に戻して洗う方法のことを指す。
かもじは、「髢」と書く。
地毛の足りないところに乗せる、いわば昔の「部分カツラ」のようなものらしい。
鹿の子とは、今でも「鹿の子編み」という素材があるように、シカの子供の模様に似せたまだらな柄のことを言う。
だけどこの場合の鹿の子とは、絞り染めで、まだら模様を表現した染物(生地)のことを指すようだ。
その生地でできた着物を指すのだろうか。日常的に洗えるものではないと、商売が成立しない。
それにしても、部分カツラや布を洗ってくれる「だけの」仕事があるというのがすごい。
そしてそんな布生地が、裏で悪口に使われているという素朴さ。
その仕事をしていた「裕さん」。洗う仕事なので「湯さん」なのかも知れない。
江戸時代にはものすごく分業が進んでいて、今なら専門業者が機械でいろいろいっぺんにやってしまうようなことを、一つ一つの工程にそれぞれ業者がいた。もちろん、身入りは多くないだろうが、なんとか「みんなそんなもの」という感じで、職人たちは楽しげに生きていた、と思う。
ちなみに最初に出てきた「ワニ革の瓢箪みたいな顔」をしていた「徳さん」という男の商売は「すきなおし屋」である。
すきなおしとは「漉き直し」、つまり紙のリサイクル業者である。
江戸時代、紙くずは資源ごみとしてほぼ100%再利用されていた。
非人と言われる人たちが、町中で紙を拾い集めていたという。それを再生紙として作り直す専門業者だったのだ。
そしてなんとも、他のジャンルの芸術には出てこない、転用のしようもないような気軽でケッタイなフレーズが現れる。
これである。
3、ひーふるひーふるせっきのはらいもさっぱりどろかいちゃんぽんでおますわいな
こうなってくるともう呪文だ。
このくだりも、長屋に住むヤモメ暮らしの男を半ば見下す意図で出てくるから、どこか蔑んだニュアンスで考えることができる。
ひーふるを「火が降る」、つまり家計が火の車(みたいなもの)だと解釈すると、「せっきのはらい」は「節季の払い」とわかる。ツケにしていた支払いのことだ。期限のある「節季の払い」が、「さっぱりどろかい」で「ちゃんぽん」だというのだ。どろかいでちゃんぽん、なんだかもういい加減でめちゃくちゃだ、という雰囲気はわかるような気がする。要するに「たいした稼ぎもなくて金がない、程度の悪いダメなやつ」ということを言いたいのだと思う。
以上の3つが「不動坊」に出てくる悪口だ。
聞いているだけではニュアンスしかわからないし、現代の我々が使うにはTPO的にかなりハードルが高い。
落語に出てくる罵倒のニュアンスとしては、他に
4、あんけらそ
がある。
「青菜」などに出てくる。
「このアンケラソ!!」と罵られる。男性が罵倒される。
何を意味するのだろう。
よーく聴いていると、桂枝雀の「船弁慶」にだけ、
「このあんけらそ!ハゲネズミィ!」
と続けて言う場面がある。
「今時分までどこのたくり歩いてけつかんねん!」
の流れで連続して出てくるのだ。
「のたくり歩いてけつかる」という言い方もすごいがこの場合、どうも後半の「ハゲネズミ」が、あんけらそを補足、または訳しているように聞こえるのだ。難しい「アンケラソ」を、現代語版に言い直してくれているように聞こえる。
「ハゲネズミ」は豊臣秀吉のアダ名でもあったそうだが、もしこの解釈が正しいとすると、あんけらその「そ」は「鼠」だということになる。
猫を噛むのは窮鼠だが、あほ・ばかと罵られるのは「あんけら鼠」なのである。
じゃあ「あんけら」ってなんなのだ?ということになるのだが、「ハゲ」のことなのか??
真相はわからない。
他には
5、ちょうちびす
がある。
これは腸チフスが訛ったものらしい。
こういうのは、ただ単に音感で叫ばれているに過ぎない気がする。
話の流れから、別にその病気になったこととか患っている人のことを言っているわけでもない。関わりのある人がいたら嫌な気分にもなるが、時代感覚的に、安易に病名を悪口に使ってしまうという現代にはなじまない例だ。ちなみにチフスは今でもたまに集団食中毒で話題になったりしている。感染経路は様々だ。
これら(4、5)は、直接的な罵倒に使われる、だけど愛着と呆れが混じったような、アホボケカスに近いニュアンスで使用されているので、意味はわからなくても音の感触で楽しむのが正しい。言われた方も、まぁそう言うなよ…みたいな、ダメージをあまりない言葉でもある。もちろん、現代の感覚では合わないこともあるので、注意が必要だろう。
そんな言い回しがあるのか!?と思ってしまうのがこれだ。
6、あんな、パンみたいなオヤっさんでも
これは「宿替え」に出てくる。
「パンみたい」が、罵る言葉になるというのはどういうことなのだろう。
これは、パンがまだ、とんでもなく新しい舶来の食べ物だった時代を思い浮かべないといけない。
例えば「あんパン」にはあんが入っているわけだが、それまでの日本には、あんが入っている食べ物としては「まんじゅう」とか「もなか」とか「どら焼き」のような類しかなかったはずだ。まんじゅうにおける、あんのつまり方に比べてパンは、ちょっと物足りない…という印象だったのだろうと思う。
中身のスカスカな感じ。
ニュアンスとしては、ちょっと抜けている、物足りない、ということを言いたかったのだろう。
だからパン「みたいな」が、ちょっと間抜けな男に対する罵倒語になる。
木村屋(木村屋總本店)によってあんパンが考案されたのは、明治7年である。
思い起こせば「不動坊」の中で、「アホ!ボケカス!ラッパ!空気!」という罵り方が登場する。まさか「空気」が罵倒語になるとは…。
これも「中身がなく、フワフワした、色も厚みもない、存在の薄い」といったところを罵倒の根拠にしているのだろう。
可食部があるだけ、パンの方がぜんぜんマシである。
さてここからが最大の謎、結論から言うとこの言葉については、故事も来歴も理由もさっぱりわからない。
突然変異的に、歴史上に単独で浮かんでいる、孤高の罵倒語である。
唐突で、意味不明で、社会のどこにも接続していない。
それが
7、ぱいらいふ
である。
この言葉は「植木屋娘」に登場するのだが、
「ぱいらいふみたいな顔や」
「ぱいらいふて何やの?」
「お前の顔みたいなことを言うねん」
と、小さい半径ですぐに循環してしまい、これ以上の情報はない。
つまり説明する余地を残さず、既成事実としてだけ存在する。
落語を演じている噺家の方々も昔から、意味がわからず使っているらしい。
ぱいらいふ…なんだか発音的に、おもしろさを追求して文字を入れ替えて造語したとしたら、近いのは「フライパン」なのかなぁなんて思ったりもしてみるが、この「植木屋娘」には「やがて500石の家督を継ぐ身の…」という登場人物が出てくるので、絶対に時代は江戸、なのである。
ぱいらいふ…そこに「みたいな」がついて発声していることから、比喩として使える物体であるのだろうと思われる。発言した男にとっては、それを思い浮かべながら人の顔(自分の奥さんだが)との類似点を指摘できるほどなのだから、具体がどこか、この世に存在するのである。
…もしくは、好事家しか知らない、いにしえの妖怪の名前かなにかなのか…。
しかし、「それって何?」と尋ねられても「◯◯だ」と答えられないというところから察するに、「状態を表す言葉」なのかもしれない…とも言えそうだ。
悪魔、悪霊、邪神に分類されるべき存在。
災厄の前兆を体現したものと言われる。
というのは、漫画「パタリロ」に出てくる設定である。
闇と混沌の申し子にして恐怖の使者
限りなき腐敗の王にして究極的堕落の権化
絶望と虚無の体現者
その姿は魚に似ず獣にも鳥にも似ていないが
昆虫にもまた似ていない
災厄が訪れるとき前触れとして出没するが
これを見たものは石に変ずると言われる
けっきょく、パイライフという言葉は知っているがそれがなんなのかは誰も知らない、という設定になっている。
おそらく作者の魔夜峰央氏が、落語に出てくる謎の物体(?)とその存在感から、着想を得たのだろう。
パタリロには落語から引用されたセリフが多々出てくる。
そんな中「ぱいらいふ」だけは、どんな使い方をしようが過剰に想像をふくらませようが結局実態は古今東西、闇の中なので「アリ」なのである。
冒頭に書いたように、ぱいらいふに関しては一切、なんら判明しない。
なんの情報も増えることがない。
派生してふくらんだ妄想だけが、ある程度の大きさになるだけである。
全宇宙で「植木屋娘」の中にだけ存在する言葉。
それでも噺の中においては、すべてが言い回し、音感の良さが優先されているというのが重要なところだろう。言いやすさ、聞こえやすさ、意味は不明だがなぜか伝わるニュアンス。笑えるアトモスフィア。
様々に入れ替えられながら、スムースに通る言葉にじょじょに、変化してきたのかも知れない。
一生忘れないが、一生謎が解けそうもない。
それが、「ぱいらいふ」。