みなさんナマステ。
去年のクリスマスに書きました記事、それなりの反応をいただきました。
熱心な信者の方から(私のじゃないですよw)、またはそうでない方から、「いろんな解釈があるので、そんなに簡単に言うことはできない」「考察が浅い」「諸説ありまして」などの貴重なご意見を、メールで、または直接うかがうことができました。
「じゃあ何十年も般若心経を拝んでいるウチのジイちゃんはどうなるんだ」的なご意見も。
ごもっともです。
かくゆう私の実家+近辺+県など、いくら観察範囲を広げて行っても「般若心経」の知名度は言うまでもなく凄まじく、まさに「人口に膾炙する」そのものなのであり、信仰心と比例すべき部分も、認知せざるを得ないと思います。
でも残念ですが、これは「お経」の話です。
お釈迦様が言ってることと矛盾があるならば、それは「仏教」ではないんです。
「いろいろな解釈」など、存在することじたい、おかしい。
読む人が勝手に、都合よく読んでよいなどと言うことは、あってはいけない。
仏教は「お釈迦様が言われたこと」を根本にしていて、それ以外は「ゴミ」です。
極端な言い方ですが、中国のえらいお坊さんとか、比叡山のトップだろうが空海の生まれ変わりだろうが、関係ないんです。
年末から年始にかけて読みましたこの本には、明快に書いてありました。
やはり、仏教をあまり理解していない人が書いたとしか言えない、という結論です。
私ですらおかしいと感じる「色即是空 空即是色」の頁も、快刀乱麻を断つがごとくに明瞭です。
ぜひ、読んでみることをオススメします。
というか、この本を読んでもいないのに、なんで「般若心経はね…」なんて言って来られたのか、今になって首をかしげざるを得ません。
わかってないまま習慣となって唱え続けた般若心経は、生活の一部、まるで挨拶まさに「呪文」となって心を癒し、悪霊を退散させ、死者を弔う役割を負ってきたということですね。
「般若心経」最後段の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」、これはやはり明らかに「呪文」だとのことですが、もはや般若心経全体が「意味の通らない呪文」であるということです。
いや、今はとてもたくさんの「般若心経本」が出てますよね。
これらはつまり…そういうことです。
読んだ人が、勝手に解釈して、勝手に「イイ感じ」に意訳した、「ブッダとはなんの関係もない」詩ですね。
「ぎゃーていぎゃーてい〜」の部分にも注釈や説明がつけられている本があったりしますが、著者の勝手な解釈です。妄想です。
それが本当にそういう意味なら、ブッダは、その意味じたいを語ったはずです。決して「これ、いいから、呪文唱えとけよ」とは言いません。
わけがわからない「ブッダ否定」を含めたことが262文字の短さに「呪文」として塗り込められているので「ありがたい」という色眼鏡で見ると、「これはこういうことを言っているのだろう、…な?」という好意的な拡大解釈が起こってしまうようですね。
習慣の力おそるべし、です。
「諸説ありまして」などというのは意味のない凡人のタワゴトであって、般若心経には、ブッダの教えとは真逆のめちゃくちゃが書いてあると言わざるを得ません。
「だからと言ってぇ、般若心経の素晴らしさがいささかであろうと損なわれるものではなぁああい!!」
と思われるのであれば、それはもはや「個人の自由の範疇」でしょう。「人権」の世界ですね。
ブッダはそんなことは言っていないので。
いかに「仏説」から始まろうとも、内容はデタラメです。
「いろんな解釈」が成り立つのならば、それがすでにデタラメです。
「諸説」などあり得ません。
というわけで、「必要以上に(因習の範囲以上に)般若心経をありがたがる」というのは、勝手な、新興宗教に近い振る舞いだということを、心に留めることにしたいと思います。
つまり「唱え続ければ幸せになれるよ。極楽へ行けるよ」という、「そんなことブッダはヒトコトも言ってないよ?」という、日本で鎌倉時代から反映した各種の宗派が、否定されざるを得ない事態、が、真実だということになりますね。
ちなみに、以上のことも、ひょっとするとそこらへんのお坊さんはご存知ありません。
その辺りは、この記事も関係してくるかと。