大阪の話ではありません。
現代を「太古の昔」と表現する世界。
新しい世界。
人間の能力本位で形成された世界観。
人類は、このまま何千年か生きる内、最適解を求めて正しく変革していけるのか、そのあたりも想像させられます。
常に守旧派というか保守派というか、「変えるな」という側の人たちはたくさんいて、「変えてもいいんだ」と「変わらざるを得ない」の狭間に苦しむ局面が出て来ます。
この物語の世界のように、歪みながらも調和を目指す、しかし統率・管理された世界は、どこかやはり非現実なんだけど、昔からある華やかなレトロフューチャーな未来はけっきょく訪れないんじゃないだろうか、なんて気にもさせられるのです。
ロボットが発達して…という機械文明の成れの果て、と考えると、少し絶望しながら向かう未来という感じもして来ます。
我々は今のこの文明が、このまま進歩こそすれ、衰退するなどとは、まず思ってもみないですよね。
いや、各地域的には人口減少とか食糧難とかアウトブレイクとか戦争とか、不穏な要素はたくさんあるけれど、「人類の文明」という範疇で言えば基本的には進歩的、右肩上がりに便利になる科学的な発展が約束されている、という前提で、我々は生きている。
あなたも疑いなく、少なくとも自分が生きている間、ものすごく多く見積もって50年?いや100年は、そんな状態であるのが当たり前だと信じてるんじゃないでしょうか。
それは、
「宙に浮く車ができるかどうかでどーたら」
「通信速度やHD容量がムーアの法則でうんたら」
というレベルの話であって、ね。
もっともっと先、2000年後とか3000年後には、どんな状態で人類は、「文明」というものを支えているんだろうかと。
果たして10000年後に、人類は地球上に同じ状態で存在しているのだろうかと。
古代エジプト人は、自分たちを「我らは古代エジプト人である」とは認識していなかったでしょう。
まるで今われわれ現代人が「われわれは現代人だ」と思うのとぴったり同じように、彼らも「われわれは現代人だ」と思っていたはず。
つまり、「常に時代は最先端だった」ということです。
そしてその「最先端」の果てに常に、滅亡は有る。
恐竜だってその前の何かだって、最先端、頂点の状態で滅んでいったんです。
そういう、「文明の頂点」を抜けた先、の話なんですね、この「新世界より」は。
だから、まず前提となる価値観が全く違います。
こういう未来の設定って、いつの間にか、現代の価値観を当たり前に採用してスルーしてたりするっていう場合があったりして、たいていは冷めるんです。
おいおい、そこは普通なんかいなって。
そこまで精緻ではないにせよ、この物語の世界観は、まるで「近代文明以前」を彷彿とさせます。
平安時代とか奈良時代とか、科学の最先端を突き抜けた先に、科学がなかった時代が待っていると思わせるのです。
パラドックスなノスタルジーで包んであります。
そこに、郷愁と親近感を持ってしまいます。
過去を利用して、1000を飛ばした未来を見る感触。
「温故知新」を読者がフル活用して楽しむニューワールド。
それにしても怖い。ただただ怖い。
もう怖くって、読むのをやめられない。
一度ぱたんと閉じて、ウウウ…と考えて、また読みすすめてしまうのです。
ホラー好き、
怖いもの見たさ、
フィクションとは知りつつも、
恐ろしさがなんだかとてつもなく新鮮。
これは一体、何なんだ。この「怖さ」は、どこから来るんだろう。
だいたい、「怖い」っていうのは、価値観が揃ってるんですよ、前提がね。
文化としての前提を、共有していることに依拠しています。
うらめしや〜は、「日本文化」でしょ?
幽霊が着物ってことは、「着物文化」を共有してますよね。
あのヒット映画「リング」にしたって、「呪いのビデオ」という、テレビ・再生、ビデオ、という文化が前提になってる。
「ビデオって?巻き戻しって何巻くのwwwwww」とかいう世代には、そもそもの前提が通用しない。
その意味で、「本当にあった怖い」話とか、「呪いの何とか」とか、私としては基本的にまったく怖くないんです。
前提を共有しているということは、「そんなことは起こらない」ということも、よく知っているということですから。
ありえない嘘が混じっていることが、すぐにわかってしまうんですよね。
冷める。
嘘に冷めると言うよりも、それを怖がるより先に「先にもっとあり得(う)べき可能性を提示しろよ」とか思ってしまいます。
「まず科学的な検証を尽くすべきだろうがよ」とか思ってしまうんです…。
例えば。
誰もいないはずの校舎に…
って、「誰もいない」っていうのはどうやって確認したわけ?
夜間工事の作業員がいないっていうのは、なんでわかるわけ?
「いないはず」っていうのは、あなたの思い込みですよね?
など、口には出さないけれど、ずーっとツッコんでいると、怖がる余裕って、なくなってくるんです。
それもすべて、「基盤となる文化を知っているから」。
その「基盤である文化」を、上巻、中巻で、ゼロから叩きこまれてきたのがこの「新世界より」なのです。
怖がる前提が、今のわれわれとぜんぜん違う。
たとえば、季節のかわりめに風邪って引いたりしますよね。
解熱剤飲んだり
座薬入れたり
みかん食べたり
ゆっくり寝たり
もう、対処法は知ってるし、たいてい「風邪で、まず死んだりはしない」ということも、知ってます。
で、「風邪のない世界」に住んでいたとして。
風邪の症状が初めて、「自分だけ」に現れたら、
この発熱
この頭痛
このだるさ
この咳
この鼻水
…これ、ヤバイぞ…死ぬかもしれんて…
って、思うと思うんです。
そういう感じ、です。
余計わかりにくいかな。
「そんなものはなかった!」という前提をしっかり脳内に刷り込まれたうえで、「それが現れたぁあああああ!!!!!!」という恐怖。
すでにその世界の住人となっている読者は、震撼するんです。
作中で気になる人物?そりゃ。
鏑木肆星に決まってるでしょうが。