(偶然にも、というかただ他に男性がたまたまいなかっただけだけど)女性ばかりのお茶会に座る機会がありました。
割といつまでいるんだここに、と思っていましたがものすごい長い時間(コーヒーもお代わりしました)、同じ席に座ってました。
夜中じゅう居酒屋やスナックに座っているということはまずしないですけど、しゃべってコーヒーを頂くだけで何時間もいられる、というのにはやはり幾つか条件があると思いました。
それは
・話術はなくとも話題がある
・その話題が、いいくらいの配分で「自分のこと」である
・駐車場料金の心配をしなくてもいい
・トイレが不快でない
・水(お冷)が不味くない
です。
眠いとかを覗くと、これくらいの要件を満たさないと長くはいられない気がします。
・話題がある
これは当たり前で、長らくの関係であっても家族であっても、それなら家で座ってればいいんであって、ここへ来たからには雨やどりだろうがなんだろうが、多少の話題をぽん、ぽんと投げ返してはまた受け取る、というようなことを「しようとする努力」が必要である。それが前提。うまいかどうかは関係ない。続けようとする努力。それなくして、「おしゃべりが上手」というような領域にはたどり着けない。
・その話題が、いいくらいの配分で、「自分のこと」である
自分のことは話しやすい。黙っていれば人の話を聞いているだけで楽しいこともあるが、その分量による。私の場合、親しくない人(またはそうでなくても)、自分の意見を述べれば述べるほど「変な人だなぁ」という印象が高まっていってしまうので加減が難しい。静かでつまらない印象の会になるよりは、自分が変人扱いされた方がマシだな、と思って色々話させてもらうことは、ある。
・駐車場料金の心配をしなくてもいい
最近は、「akippa」をよく使う。
死ぬほど便利で、感謝している。
「ありがとうボタン」を必ず押したくなる。
いわゆるマッチングサービスというもの。
都会に限らず「ここに停めておいても駐禁切られない」はある種、情報強者のステータスという印象があったが、結局、行政に怯えて周辺住民に迷惑をかけながらコソコソ違反を犯していることに変わりはない。堂々とするには、堂々と駐車料金を払うに限る。しかし土地柄によっては天井知らずな「最大料金ナシ」な駐車場がいくらでもある。
革命的な便利さの「akippa」を使いこなしてこそ、だ。
ちなみに田舎の実家の近くで探したら一応登録している民家があって、引くほど少なくて安かった。
・トイレが不快でない
トイレに間取りを取っていないお店は、居抜きで開店したが故にトイレが古代のままだったりする。和式とか。古いタイルのままとか。「レトロに甘えるな」とすら思ってしまう。トイレに何度も行きたくなくなる、ということは、飲み物をこれ以上飲んでおしっこしたくない、という意味だ。コンビニで借りた方が百倍マシなお店には、もう二度と行かない。
・水(お冷)が不味くない
その水でコーヒーとか抽出してるんなら、豆の卸に告げ口するよ?というくらい、お冷が不味い店がある。浄水器すら設置していないのかフィルターを換える寸前なのか、「あれ?金魚飼ってる?」というくらい生臭い店がある。
昔の大阪じゃあるまいし、水道水が飲める国に住んでいると絶賛されている日本だからこそ、異様に厳しくなっているのかもしれないが、結局メニューを食べきった後、お冷で過ごす時間があるから、何度も注ぎに来てもらうのは恐縮だが、不味い水を飲んで耐えるのは辛いなぁ、と正直思う。
これらを満たしたら、長居をすることになる可能性が高です。
後は空調。後は音楽。後はいやな客。
言い出したらきりがないか。
自分にとって快適なお店、というのはいつも難しい。
女性に混じって男性一人、だとなおさらである。
「女子会に男一人、お邪魔しました」という言い回しを聞いたことがあるけれど、女子会に男がいたらもうそれは女子会ではないですよね。
だから「女子会にお邪魔した」というのは矛盾しています。
「無人島にもう6年も住んでいる」。
6年もお前がいたらもうとっくにそこは無人島ではないのだ。
ついでに言うと「女子」は子供を指します。
子供は子供だけでカフェに入ってシフォンケーキを食べたりはしない。
「女子」が、子供を脱した大人の女性を主に指す言葉になって久しいです。
おそらくだけど、女性を女子というようになったのは、小学生や中学生の頃の「もう、男子って子供ね〜」というような回想をする際に「女子的なるもの」「男子的なるもの」が注目された経緯があるのだと思います。
女子だけ集められてレクチャーされたあの時間はなんだったんだろう、とか。
女子には派閥があって、云々。
そういう時に、思い出す用に使われていた「女子」という言葉が、今は便利になって広まっている状態。
何せ、「女」という区分は、人類をほぼ2つに分ける。
そこに「美醜」や「年齢」や「身分」は入り込む余地がない。
性別で分けるだけなので、男性以外のほぼすべてをカテゴライズすることができてしまうんですね。
この便利さも、広まった要因だと考えられます。
80歳が3人集まっても「女子会」だし、その微笑ましさは「あの時の、女学校の集まりのように」という回顧を横から見させていただくような情緒があります。
それにひきかえ、ただ単に自分をいつまでも10代と同じように見てもらいたく19・20の若い女性と見た目が変わらない状態を理想と思い込んでいる30代〜40代の女性たちが自称する「女子」は、化粧と脂の混じった臭さとともに「やめといた方がいいじゃないのみっともない」という助言が喉まで出かかる哀愁に満ちていたりもします。いえ、そんなの自由ですけれど。
少しおさまったような気もするが、それを助長するメディアも多かったですよね。
なぜかというとその理由は「あまり深く考えない層と見なされているからお金を使うでしょ?」ということであって、決して「最も素晴らしいから」ではない。
バカにされてることに、早々に「女子」は気づいたんですね。
今後、考えるべきこと
人間は、自分でそれをレッテルとして冗談で使っていると、それ以外の言葉がしっくり感じなくなって、ついには言葉自体に飲み込まれてしまうものです。
女子会しましょ〜などと、本気まじりで冗談を言っていると、本当に「これは女子会」としか呼べなくなり、本質の代わりにみっともなさだけが滲(にじ)み浮いてくる。
他人が考えたラベル名に振り回されるのは頭の弱い証拠だと割り切って、今日から「女子会」「女子」「○○女子」という単語には、冷笑を浴びせることにしたらどうでしょう。
それは「そういう層」の人らが利用されるべくはまり込んでいる底なし沼なので、利用する側が、便利に使っているだけですから。
このブログに来てこれをここまで読んでしまったからには、明日から少し何かが変わっていいると(あなたが女性だとしたら)、いいなぁと思います。
今回のまとめ(ではない)
個人的には良いカフェであっても、声の調節ができないガサツな男性が一緒だと、不快だ。体調を崩す。
ぼそぼそと小さい声で囁いたり、ここぞとばかりに適切な大きさで指摘をしたりができてこそ、会は良い会になる。