自分が死ぬ瞬間を想像してみましょう。
決して「目を閉じた」や「心臓が止まった」などの、外から見た死ではなく「自分が自分でなくなる瞬間」というか 「あ、もう戻れないんだなと感じる瞬間」の、直前あたりからのことを。
ひょっとしたらその瞬間からは、なにも思えなくなるのかも知れない。
ひょっとしたらある瞬間からあっちは、別の何者かとしてなにかを思い始めるのかもしれない。
魂(たましい)は無限である、ともやっぱり思いたい我々は、精神の塊(かたまり)だけは永遠にどこか異次元を移動し続けると考えていて、死後の世界と死前の世界のあいだに、三途の川などの境界線を設けることにして、納得の補助線にしています。
でも「目を開けている時」と「閉じている時」くらいの差しかないのかも知れないな、なんて考えたりもします。それは電車も乗れず好きな人にも会えずハンバーガーも食べれないけれど、そんなのはどうでもよくなるくらいに「あれ?わたしって感覚、ある」という状態。
不思議なくらい満たされて、苦しくない世界。
霊になったら物に触れないとか、美味しいものがないとかいうのはしょせん、想像でしかないですよね。
キューブラー・ロスはそれについて、探求しようとしていますね。
例えば。
我々は今、食べ物に関しては「美味しい」以上の価値を持ってません。
「さらに美味しいものを」とか「すごく新鮮」とかいくら言っても、「美味しいかどうか」の価値観からは逃れられない。
たとえばワニに(急だな)、うどんのコシを説明しても理解できないでしょう。
オウムに、黒ごまとゴマの違いを説いても無意味でしょう(いつしか覚えて声には出すだろうけど)。
「死後の世界」はエゴか。
次元の違う世界を生きていると、価値観や考え方は意味を為さなくなる。
死んでからも「愛する人へ」などと思うだろうと思ってしまうのは、今を生きている人間の、勝手なエゴに過ぎない気がするのです。
セミは、地中にいる 7年間(種類 によってはそれ以上)、地上にこんな世界が待っているとは知らずに生き続けているんですよね。
我々が生きている今が(セミで言う)土の中だとすると、『死んだらどうなる』???
考えるだけ無駄だとは思いつつも、意外に「死んだら魂もへったくれもない。絶無。虚空。虚無さえ無意味な、無そのもの」と想像してみることも、なかなかに生きるための「よすが」になり得るなぁ、と最近は思うのであります。