「さらに語彙力のないわたし」というTwitterの投稿を見て思いました。
すでにまとめられてますね。
http://togetter.com/li/1019479
ツイート主がつぶやくに至った「同人界隈」だけにとどまらず、多くの共感を呼んでいるようです。
この図の意味がわからない人がいるかもしれませんので、少し解説しましょう。
さらに語彙力のないわたし pic.twitter.com/FhzTrrdXvS
— かずのこ (@bodewignull) September 1, 2016
左側には「語彙力のある人」がいます。
右側には「語彙力のない人」。
左の人は、
「えっち」
「かわいい」
「好き」
「素敵」
「あー」
「尊い」
「かっこいい」
というそれぞれの感情を表現する時に、2〜8個くらいの言葉を使い分けて、表すことができるんです。
右にいる「語彙力のない人」は、それらを
「わかる」としか言えない。
これは、「わかってるかわかってないか」ではないんです。
「わかる、としか言えない」というのが重要。
抽象度では「わかる」の方が上なので日常生活では「わかるんだ」と思ってもらえて事なきを得てますが、ざっくりとしか言えないため、その感情の具体的な区別を、自分でもすることができません。
つまり、思考できないということです。
人間は、言葉でしか考えられません。
脳内で言葉を使って、思考するんだそうです。
ですから語彙がないと、様々なことをこまごまと分別できず、ぜーんぶひっくるめて「わかる〜」という事しか、思えないのです。
「言えない」のではなく、「思えない」。
ここを混同してはいけませんね。
「思えないから、言えない」のではありません。
「言えないから思えない」のです。
そしてもう一つ、我々が犯しがちな勘違いがあります。
それは…
「語彙とは単語だけじゃない」ということ。
構文そのものとか、表現とか、形容している様子とか、そういうのが一緒くたに記憶にへばりついて、他の時空で適用される。
そうそう、ちょうどこの間、所ジョージさんが、100均のブラシでプラモデルの部品を作る、という話を番組(世田谷ベース)でされている時に、
「このブラシからちょうど154本取れる。これじたいには意味はないんだけど、ああ、あれくらいの塊だったら154本だな…、とか他のことに当てはめることができる。“30cmのモノサシ持っとけ”とか若いヤツに言ってるのはそれ。当てはめるゲームだから」
みたいなことをおっしゃってて、「それと同じやがな」、と激しく思いました。
例えば今読んでいる本に、こういう箇所があります。
公共的に認知された意味を欠いているという点に、多重に破壊的なところがある。(『読む哲学辞典』p.18 講談社現代新書)
この「多重に破壊的」なんていう表現はまさにそうで、この文章にしか当てはまらないこと、ではないんですよね。
「多重に破壊的」。
これをなんとなく覚えておくと、何かの場面で(例えば怪獣映画でもいいでしょう)、
「ウ〜ン、多重に破壊的だぜ」なんて言えたりする。
そうすると「語彙力ありますね」って言われますよたぶんwww
そういうことなんですよ。
こういうのをいっぱい知ってないと、「シン・ゴジラどうでした?」って聞かれたら、
「ヤバかった」
しか出てこないことになります。
すでに言ったように、「言葉にならない」のは、「表現が下手」だからではなく「思考ができてない」からであり、その原因は「語彙がないから」なんです。
冒頭の画像をよく見ると、「尊敬」の欄に「ハイブロウ」という単語があるのがわかりますね。
英語でハイブロー(highbrow)とは「教養や学識のある人。知識人。また、知的で趣味がよく高級であるさま。」。
コトバンク「ハイブロー」
https://kotobank.jp/word/ハイブロー-599345
「尊い」とは意味が違います。
でも、「ハイ」で「ブロー」、っという語感から、「尊いぜ!」という意味に勝手に使っても構わない。
これこそが、語彙力です。
これこそがボキャ力。
これが可能だからこそ、
例えば
「鬼安」なんていうコトが可能になるんでしょう。
鬼は怪物。買い物とか関係ない。
「鬼のように安い」なんていうのは、語彙力以外の何物でもない。
辞書を全部読んで覚えても、語彙力は上がりません。
いや、上がらないわけはないですがw、そんなの無理ですから、日々の暮しの中に、「読書」は必須だな、と改めて思った次第です。
いや、「わかるー」やないっちゅうねんwww