死んだ方がマシ?
死んだ方がマシかは、死んでみないとわからない。ぜんぜんマシじゃないかも知れないし、死ななきゃ良かったと思うほどツラいかも知れない。わからないので死んでみてもいい。だけど放っておいても人は必ず100%死ぬので、それからでも良いような気がする。今のツラさを断ち切るために死にたくなるわけだが、他に有効なツラさを断ち切る方法が提示できなければ、死ぬことが一番現実的な選択肢になるのは当たり前だ。死にたいと思った人は死んでもいい。でもやはり、「放っておいても死ぬ設定」になっていることは、思い出しても良いだろうと思う。
しゃもじじゃなくて千羽鶴?
千羽鶴の1枚1枚に「必勝」って書いて送った方が気持ちは伝わったかも知れない。小さな紙を折り曲げて鳥の形にしてそれを1000個集合させることに「想いを込めました」感が出るわけだが、確かにしゃもじは響きも形もなんだかユーモラスなものだから気持ちがこもっていないように受け取られるのかも知れない。しかし特産品・名物・縁起物などしょせんなんであってもそんなものだと思う。ダルマなら?コケシなら?木彫りの熊なら?そんなことを悩んでも意味はない。一国の首相が現地に行って手渡した、ということが何よりのメッセージであり、気持ちが伝わったかどうかなどという主観的なことを考えてもしょうがない。文字としては「必勝」がベストだ。「平和」と書いてうっとりするのは一部の日本人だけだろう。
禁煙なん日め?
「禁煙」をしているヤツはアホである。「禁煙○○日め」などと数えているヤツはもっとアホである。なぜならその数値は、禁煙失敗のカウントアップ(カウントダウンの逆)に過ぎないからだ。特別な理由もないのに「退院○○日め」などと、完治してからの日数を数える人がいるだろうか。入院中に「退院まで○日」と指折り数えることはあるだろう️。「吸わなくなってからの日数」など、吸わない人間にとってはなんの価値もない。死ぬまで続くだけの、寿命と同じ数字でしかない。禁煙の時間を数えているということは、次に吸うまでのインターバルが終わるのを待っているということだ。それを「我慢の記録」として意識し続けている人は、すべての仕事や作業を次にタバコが吸えるまでの苦痛だと思っている喫煙者と、なんら思考が変わっていない。アホである。
失礼なこと言っちゃう病?
サバサバしている分、失礼なこと言っちゃう病だから許してねっていう人は本当にたまにいる。本音で喋る・建前は苦手・腹割って話したいなどの正直さを売りにしたいようなのだけれど、実際は無神経でガサツなだけである。対人関係を円滑にするには自分の軸というのは大切なものだが、それは相手に合わせることが出来るからこそのものだ。自分はまったく不変で相手がどう思おうが関係ない、というのはもう「対人関係」ではない。人間は、雨の日も風の日もいつでも絶対に受け入れてくれる郵便ポストとは違うのである。意外に「失礼なこと言っちゃう病」の人は、自分に失礼なことを言われるのには敏感で、あるところに「許せないライン」を引いているものだ。結局は、人に気を遣われて生きているだけなのである。
科学で解明できない?
鬼の首を取ったように「科学で解明できない」を推してくるオカルト信者がいるらしい。だが不可思議なことの存在と、科学で解明できないこととは矛盾しない。人間の想像力と創造する意志の力によって生み出されるものを「ない」と証明することはできない。その不可思議なものが「ある」ならば証明するのは「ある」と主張する側の責任だ。この宇宙に異星人は絶対にいる。その乗り物であるUFOもおそらく絶対にある。だがオカルトおじさんらがビルの屋上や原っぱに集まって呪文を唱えればやって来てくれるようなUFOは絶対にいないし、それに乗っている宇宙人も絶対にいない。いずれ宇宙の謎が科学によって解き明かされても、「君ら、なんでそんな平気で嘘つくの?」という不可思議さは、解明することができない。