見た目は大事。
そうなのだ(突然ですが)。
「見た目は大事」なのだ。
いつだったかお会いした歌姫が、ポロッと口にした。
彼女はそんなつもりではなかった(かなり声小さかったし)
だろうけど、俺にはぷ〜んと漂ってきた。

簡単で、聞いた事ある言葉なのだけれど、
とても大切なことだと思う。
「見た目は大事よね」。

それは、「外見で判断するな!」と声高に叫ぶ、
ニキビ全開の暴走族には理解出来ないことかも知れない。

ハッキリと言い切れるんである。
眉毛を太めの顔で、言い切るんである。

「外見で判断するな!」と言うヤツに限って、
ものすごく外見で判断して欲しそうな外見をしているんである。

伝統的に分かりやすい例としてやはり、
暴走族とパンクスが挙げられる。

たとえば、初対面だったとして。
キミの外見以外で、
なにをどう判断しろというのだろうか。
いきなり「あなたは優しくていい子だねえ」
とでも言って欲しいんだろうか。

甘えるなと。

「奇抜でイカツいファッションに身を包むのは、
結果的には行きどころのない青春のエネルギーだ」
というようなカッコいい言葉で
理解者ヅラする気色の悪い大人たちがいるから、
アホガキがどんどん調子に乗って
「外見で判断するな!」と言ってしまうのである。

彼らのいいぶんをごく一般的に解釈すると
「人間は中身だ、内面をみてほしい」という主張だと思われる。

しかし、よーく考えてみると。
じっくり、想像して照らし合わせてみると。
はたして、「外見」の反対は、「内面」なのだろうか。

そこですぐに俺が思い起こすのは、
ボランティア活動というヤツである。
ボランティア活動にはさまざまな形態があるが、
それらを行なっている姿(空き缶広いや老人介護や
刑務所慰問)というのを「外見」と呼んでみれば…。

「世の為ひとの為、自身を投げ打って奉仕しなければ
極楽浄土に輪廻転生はできまいて…!」という、
善良まっしぐらで曇り一つない正義に
燃えた天使のブラ(意味不明)を「内面」と
呼ばなくてはならなくなる。

果たして、そうであろうか。
心にある「善」は、
すべて外界にもれなくにじみ出てくるものだろうか。

「正しい外見」は、
ただちに「立派な内面」をあらわしてくれるのだろうか。

逆に心にある「悪」は、
すべて言動に反映するべきものなのだろうか。

ボランティア活動が及ぼす慈愛に満ちた行為が、
世を助け人を救う善行であることに間違いはない。
未来へは、大きな優しさのみでこそ前進する。

しかしその行為を行なう心象風景が、
ドロドロの悪意の固まりであったと
してもそれは「善」と見なされるのではないか。
結果オーライ、という現象が、
社会には無数にあるのではなかろうか。

いや社会で生活するとはひょっとすると、
「内面と外見(ハランナカとソトヅラ)」の調整をする、
ということではないか。
その調整がうまくいかないとき、
大人は大人のくせに
ストレスでニキビができたりするのである(フキデモノと呼ぶ)。

だからといって
「外見のみが人間だ」などというつもりはない。
そんなはずはない。
しかし「人間は、中身がすべてなんかじゃないぜ」と思うのだ。

外見とは、ファッションや髪型だけじゃないんだ。
彼らは外見を、「ファッションと髪型の事」と勘違いしてるのだ。

他人に理解されようとする努力が、
体内からニジミでているかどうか。
他人を理解しようとしている努力が、目の奥で燃えているか。
他人が理解していると理解できるアンテナを、立てているか。

逆説的に言えば、「外見とは、内面だ!!」と。
見た目をガラリと変えて(イメチェンね)、
内面が引きずられない人間がいるのなら会ってみたい。

合致するはずのない内外のギャップを、
なんとか折り合いをつけているのが普通だ。

だから逆に「いい人そうに見える」などというヤツは、
意味のない自己満足に酔っているだけのペテン師だ。
ほんとうに悪いヤツではないかもしれないが、
そう見える外見を知っていながら、
その外見と内面が一致しているというウソを、
否定しない態度は許せない。

「いい人そうに見える」は、ちっともホメ言葉なんかじゃない。

大人が抱える心的矛盾を、
苦しんだ形跡のない人間は信用できない。
裏オモテのある人間を、
ぼくらは嫌うつもりで生きているけれど、
人間の本性は、二面性どころの騒ぎじゃない。
多面体として転がって生きている。

バキっと分かりやすく正直なだけの人間など家畜と同じだ。
ウソって、ひとを傷つけたくないからつくんでしょう?

自分かわいいだけの「正直者」を、 俺は信じない。
TOPへ戻る
アーカイブ目次へ戻る