極楽世界は神か美か
自分たちは死んだらどこへ行くのか。

まったくの「無」であるというのは
なんか寂しいし、
人殺しをしまくって
死刑になったようなヤツと、
できるだけ善良に生きようと苦労して
努力している人が、
同じ「無」ではなんだか情けなくなる。
だいたいそれでは、
生きているうちに
善良を目指すことに説得力がなくなる気がする。

死んだ瞬間に生まれ変わりが始まり、
ある期間を過ぎると
次の一生に向かってゆく、というような
輪廻転生では、
われわれの「降霊」とか「鎮魂」だとかが
すべて意味の無い茶番だということに
なりはしないか。

考えてみると先祖を仏壇に祀っても祀らなくても、
子孫に降りかかる「罰(バチ)」の量にそう
変わりはないような気もするし、
お経(お釈迦様の説。つまり宗教理論か)を
丸暗記で覚えているだけのお坊さんに、
わが先祖の気持ちや
状態がわかるとは到底思えない。

聞くところによると当のお釈迦さまも、
霊の存在は否定していたというではないか。


でもわれわれの死への恐怖は、
仏教以前にもとうに巨大な謎として
立ちふさがっていたのであり、
それはさまざまな形で表現されていたのだろう。

死への直接的な恐怖の現出が
宗教のような気がする。

自分が居なくなることへの間接的な表出が
芸術のような気がする。

石器時代や縄文時代の遺跡から発掘されるような
石器や土器を見ても、
別になくても構わないと思うような壁画や陶芸、
別につけなくても構わないと思うような
文様や絵柄、
それらはすべて「描いた人はわたくしです」という
自己アピールであり、
時代的に
「作品を編み出した作者の
名を残すという文化レベルに至らなかっただけ」なのは、
技術と文化が進めば「作者の特定が必ずできるようになる」
ということでわかる。

人間は死んだらどこへ行くのかという
根源的な恐怖から解き放たれることがないから、
架空の相談相手である「神」にすがるか、
死んでから乗り移れる(生きていた証拠を残せる)
「芸術」に進むかしかないのである。

ふたつは同根である。
だから、宗教が芸術を利用して
信仰の目印にしようとするのは
当然のなりゆきであり、
芸術が宗教をモチーフにして
その表現の幅を確かめるのも
当たり前のハナシなのである。

そしてその両方がなんの違和感もなく
助け合い融けあうのは、
宗教と芸術がもともとは

『人間の同じ感情から
生まれたものだから』当然の帰結なのである。

そういう気持ちであらゆる芸術作品を
見てみると、
なんだか妙に合点がいくものが
こころに湧いてくる気がする。
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