生きていることの意味
その大きさや小ささ、
またその色の濃いや淡いなど、
程度はさまざまだけど、

「自分はなんのために生きてるんだろう」

って思う事が、まぁあるわけさ。

理由なんかない、
とオボロゲだが確定的な答えが見えつつ、
でもそれじゃぁあんまりじゃない?と
思って頼りなく迷ってみる。

「誰かのために生きている」と
ハッキリクッキリ即答できる人はまず幸せでね。

誰かに頼られているから生きている。
情けないけど、そんな面もある。

でもだからといってビタミンCのように
「オメェ摂らねえとオレ死んじまうんだわ!」
という感じに、
絶対的存在として頼りにされることはほとんどない。
ゼロに近い。

生きたい、と普段は強く考えることもないから、
死んだ人が持つ強い理由には手が届くほどの理解に至らない。



橋に、

なれればいいなと思う。
だれかとだれかをつなぐ橋。

どこかとどこかをつなぐ橋。

関係なかったふたつを、関係させる役割。
そんな風に生きれたら、
アイツは役に立つ、って言ってもらえそうだ。

でもほんとは、
「ふたつをつなぐから、役立つから橋はイイ!」

と思われるのはメインじゃない。


じっさいに何かを橋渡しする時じゃなく、
なんとなく川を想ったときに、光景としてある橋。

山あいの渓谷を旅しようと連想したとき、
自然に想い描く橋。


「階段」に言い換えてもいい。

駅やビルや街で、なにかを思い浮かべたときに、
「あれを利用するぞ!」と意気込まずに誰もが使う階段。
風景としての階段。

強烈に求められなくても、
そこにずーっとあることが当たり前な存在。

そして自然に、普通に、
当たり前にコミュニケーションがとれる存在。

強く
「オメエなくして俺はナイ!」みたいに意識されなくても
「あいつはあそこにいるからだいじょうぶだよ」

って言われるようなヤツ。


たぶん階段や橋は
「自分はなんのためにここにいるんだろう」って
思ってないかも知れないけど、
とにかく黙ってるでしょう。

本当のヒネクレ屋さんは、
意地張ってるトコロも見せないもんダス。
言葉に出してしまうと「かまってくれ光線」が出ちゃうからね。


駅の階段と山の橋を、たまに思い出す。
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