人殺しを見ながらメシを食う
連日連夜、理解不能の猟奇的殺人事件が解説されている。

世間は、事件に満ちているのではない。
世間を報じるブラウン管が、
事件に満ちているだけなのだ。

事細かな人間関係が取りざたされ、
よりわかりやすい様に相関図が用意され、
殺害現場の模型や凶器のレプリカまでも映し出される。

まったくヒデェやつがいるもんだと、
「今や憤慨することもない」この状況を、
なんと心得ればよいのだろうか。

率直に言って、
殺人事件についての詳細など知りたくない。
冷たいようだが、どこで誰が殺されようが知る必要はない。
彼は彼の異母弟で実は内縁の夫で
実は多額の金銭の貸借関係があり、
実は実はこのふたりに肉体関係があって
隠していた借金がじつはじつはじつは…。

そんなデータで数少ない
脳の記憶媒体を埋めてしまいたくない。
ましてやそんなヒトゴロシの
ディテールを検証させられながら、
なぜメシを食わねばならないのか。

ヘタをすると朝・昼・晩、
三食以上のBGMに殺人データが流れているハメになる。
朝より夜の方が詳しくなっている自分が
少しかわいそうにも思える。
しかしその
「殺人データの注入」には、たいしてなにも思わない。

なぜ何も思わないかと言うと、
“おそらく2,3日後には忘れている”からである。


少し脱線するが、
今や食事時にテレビを
つけていても怒らない親が多いそうである。

そんな親に育てられなかった幸運を思うし、
感謝もする。

テレビをつけていて何が悪い、
と反問してくるような親とは人間として
対等に話したくない。
およそ、想像力の途絶したこころの貧しい存在、
と見下して接するほか無いだろう。

外的な刺激が次々に耳目を奪い続けるテレビが、
眼前で色やかましく明滅する状況で食べるという行為はまず、
食事を作ってくれた人に対して極めて失礼である。

手間ひまかけた食事がビタミンやミネラルなどの
栄養面からだけ語られるようになってしまって、
「時間をかけて作ったという行為そのもの=愛情」
という目に見えない無形のものがあまりにも無視されている。
実は栄養もさることながら、簡単な感謝がカラダと同時に、
アタマも作るのである。

それだけに、
ロボットが自動的に作成したモノを金銭と引き換えに入手した
というような扱いで、
「目の前にある食事を食べる」という行為を
「栄養という物質の摂取行動」だと勘違いすることから、
テレビをつけたまま食べるという愚かしい行為は始まる。

情報を仕入れるという時間的効率性から、
テレビやラジオをつけて食事をするという行為を
なにも全面的に否定しているのではない。
一人暮らしや食堂などではそれが日常的な風景であるし、
寂しげな無音空間が単純に寂しい、
という不可避な状況が、そこにはあるだろう。

しかしこどもに対して、「音声的に寂しいだろう」
という判断をするのは、親の質が悪いのではないか。

食事をしながら談笑する。
食事と言う個人的で難易度の高い行為をしながら
コミュニケーションを取るというのはなかなか大変である。
テレビを観ながら、
自分だけのペースで淡々と進めるほうが断然かんたんである。

しかし、将来的にも本質的にも、
対面に座した他人と食事をしながら会話する、
というテクニック(というほどのものでもないが)は、
ある程度幼少から育てておかねばならないもの
なのではなかろうか。

むくつけき男ばかり並列に座ったカウンターで、
大盛りラーメンを黙々とすする、
という場合ならそれは要らないが、
1対1で対面する場なら
そこは「栄養摂取行為」という意味よりも
はるかに高度な場と化すはずだ。

食事時がもつ意味は、
風呂に水を入れるようなものとは性格が違う。
儀式であると言っても良い。
無意味に見える「なにか」の交換が、
具体的な数値や様子という情報よりも大事なのである。



ましてや、
テレビが映し出すものが食事時に殺人データであることは
害毒以外のなにものでもあるまい。

刃渡り25cmの包丁で左胸を数回にわたって刺したとか、
暴行のあと全身をバラバラにしたとか、
およそ日常では絶対に体験どころか
見聞きすることもないような異常な情報を、
まるで国民の知る権利を満たすかのような共有を強要される日々。

ただでさえ、
「湯けむり殺人事件」だの「名探偵コナン」だので、
毎日殺人事件に触れているわれわれだ。
フィクションだから観る観ないは「その番組じたいの
 傾向を好みでふりわけする」ことが容易だ
(たとえば「コナン」はアニメだから観ない、など)。

しかし一般のニュースのような様子で流される猟奇殺人のごときは、
観る方がよほど気をつけていないと自然に
「知っておくべき確信情報」のような装いで近づいてくる。

じっさいには、
どこで誰がどんな殺されようをしていようがその99.9%は、
いっさい知らなくてもよいのだ。知る必要はがまるでない。
防犯意識を高める事と、いちいち起こる事件をくまなく
知ることとは関係がない。ましてやドラマの登場人物のごとく
人名年齢関係図などを覚えさせられる筋合いは微塵もない。

それで「仲間の会話についていけない」のなら、
そんな会話にはついていかなくてよい。ひょっとしたらその仲間は質が悪い。

ワイドショウが一番タチの悪い。
怪しげなBGMや派手な文字の飾りや文体で、
視聴者がなにも考えずにその事件のイメージを
決定することができるように、誘導されている。
文字通りなにも考えずに食事しながら不快感もなく
それらを観れる感覚の鈍いブタは、
番組制作者の意図どおりに思いを固めてしまう。


それによる最大の問題は、
導入される「裁判員制度」だと思われる。

一般人の予断によって、
専門家の法的な知識を超えて司法判断が下される。
濫用はないと信じたいが、
法的な順序の改定もせずに、制度的な矛盾を突き詰めもせずに、
一般人の「その時々の空気」に流されて判断を任せてしまうことに、
なにやら不安を覚える。

その一般人の判断のモトになっているのは、
件のワイドショーなのである。

そんな、
そこいらのブタがテレビに操作されて持つ単なるイメージよりも、
法曹関係者の膨大な知識によって密室で決定される結論の方が、
よほど信頼できると思うのだが。

視聴者の良識としては、
テレビのスイッチをいつ切るか、しかない。

世は多チャンネルとデジタルの時代。

まるでテレビは
「ついているのが当たり前」と言わんばかりである。

まぶたを固定されているが如きこんな状況では、
ブタが出来上がるのにそう時間はかかるまい。
テレビがつきっぱなしの空間では、
絶対にテレビを超えた発想も良識も育たない。
それはテレビやワイドショウが悪いのではなく、
「切らない自分」が悪いのだ。

テレビが消えている時間に、何をするかである。

ちらつくのが犯罪者の顔ばかりだというのは、やはり異常だ。
				
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