あかんたれファッション談義


「あなたは周りを気にしすぎ」
といわれることが、ある。

特に神経質というわけではないが、
他人に奇異に思われる行動はできるだけとりたくない。
目立ちたいだけのノープラン野郎には辟易する。
とりあえず、声だしとけ、みたいな輩は苦手だ。

いやいや、それでなくてもあなたじゅうぶん変な人ですから、
とも言われてしまうが、
それは俺の内容であって(変か?ほんとに?うそっしょ?)、
間違っても眉をひそめられるような外観では、まだないと信じている。

それでなくても「あかんたれ」である俺は、
なにかの支払いや受付など、
客として接客業の方々に接する行為もなんとなくあまりしたくない。
営業スマイルで攻撃されると必要以上に疲れる。

ああ、商売人として素晴らしいなあとか、
教育が行き届いているなあとかいう感慨と同時に、
ただ商品が欲しいだけのいち消費者なのに、
企業の理念(ときにそれは偽善とも呼ぶ)に巻き込まれている
ような気がしてなんだか気が重くなる。

「押していかないと損」という態度に、
即座になれる人をとてもうらやましく思う。
押していかないと損だと思ってるなコイツ、
と思われたら損、などと考えてしまうのだ。

要するにやっぱり、ただの恥ずかしがりなのである。

それにしてはある部分では
やたら目立っても構うもんかという自己顕示欲があるわけで、
そういう矛盾が近しい人をして
「なんでそんなに恥ずかしがり屋なのにそこは平気なわけ?」
と奇異に映るのだろう。

そのへんはたぶん、自己の内部ではパックリ分かれているの
か、渾然一体となっているのか自分でもわからないけれども、
自然な使い分けができている。

恥ずかしいと思ってしまうあまりにもシャイすぎる行為も、
スイッチさえ切り変えれば人一倍ゴリ押し気味に遂行する事もできるから謎だ。

ひっそりとしていたいという願望が、公共の場にいる時は強い。
ほっといてくれ、という気分である。

外見でも「見ておくれ!」というメッセージ全開で歩いている人を見ると
「大事な事は相談できそうにないなコイツには」と思う。

もちろんどんな格好をしようが自由だから、
他人にとやかくいわれる筋合いはない。
しかし、まわりにどう思われるかについてあまりに無神経だと、
その他のことにも影響がありそうだ。

うん。それが、
覚悟のある、「こう思われたくてやっている」というものなら問題はない。

なにも考えていないバカは、
安易にヒトラーをモチーフにしたTシャツを着て街を歩いているが、
それを着ている事によって起こる
あらゆるトラブル(とはいえないほどの小さな出来事)を
「私はナチ信奉者だ」と突っぱねる覚悟などないだろう。
知識もなさそうだ。

ナチスを支持すること自体は
憲法によっても絶対に保証されいる個人の自由だが、
それにまつわる様々なアクシデントを
受け止める気持ちを最初から持っていないなら、
そんな格好をするのはぜんぜんダメだ。

まあ、それが中学生とかなら、
デザイン的に
そのおっさんがヒトラーでなくても(ひょっとしたら
チャプリンでも)いいわけだから、
しょーがねえなあガキめ… と大目に観てもらえる
かもしれない(それでも許せない人には許せないけどね)。

ガキを叱るのは親のつとめであろうし、
未熟なガキを無知を理由に叱責するのは順番が違う。

要するに、
自分でケツを拭けない(拭けると判断できない)くせに
外見を着飾るのは全身に「わたしはアホです」と入れ墨をいれて
全裸で歩いているに等しい。それは犯罪に近い。

それに、
たまに「俺って変わってるんだよね」というような顔で
過ごしている人と話してみても、
なんら変わっていないフツーの意見しか持っていないことのなんと多い事か。

つっこんでつっこんで、
単純でワイドショー的で
平凡すぎる「意見」とやらをコナゴナに、砕いてやろうかとも思う。

そういうひとの過激なファッションなんて、あまり意味もない。
そのかわり、
ごくごくフツーの身なりなのにも関わらず、話してみるとその内容に
「なんだこの人は!?」と驚嘆することもある。

だいたい、過激なファッションというのは型にはまっている。
パンク系ならパンク系、てな感じ。
アイテムや色使いなど、しょせん他人が製造したものだから限界あるわな。

そのかわり、内面には天井がない。ついでに底もない。
そのバリエーションは無限である。

だから個人の差がおもしろい。

店で流通している物体のみで自分を表現するには限りがあるのだ。
そこにどんな自分の考えを乗せていくかで、アイテムの意味は変わってくる。

とにかく、ファッションにだけ力を入れているヤツにはバカが多い。
それは言えそうだ。周りを見てごらん。

外見を着飾ることに神経を使うあまり、
内面を映し出す機能までも排除しすぎてしまっている。

街を歩けばよく「同じようなかっこうのヤツラ」というのにでっくわすが、
彼らも、自分ではそんなに似たかっこうだとは思っていないはずなのだ。
それなりに独自にチョイスしたアイテムで着飾っているのだろうし、
偶然同じであってもずーっと一緒にいるわけでもないから、
同じブランドのTシャツを着てたってどうということはない。

外見をすごく気にして生きているくせに、なぜかどこかすごく鈍感なのだ。

しかし誰もがいつまでもそんなに奇抜な格好ばかりをするわけにもいかず、
いつしか「まあこの部分はどーでもいーや」と思うところも
なきにしもあらずって感じで、
自分も歳を取れば、
ファッション命な人たちなら「それはダメでしょ」と見下しそうな領域に、
入ってゆく。

でも、自分はこうなんだ、としっかり覚悟があれば、
Tシャツをズボンに入れたってなにもおかしくない。

だって本来、
絶対におかしくない行為だし。

それをファッション命連合のみなさんが「それは超ダサイ」という
ものすごく視野の狭い偏見で攻撃した結果、
そういう風潮になってしまっている。

しかしはっきりしておきたいのは、
連合のみなさんにとって大切なのは、
「流行」であって「ダサくない」という曖昧な基準であって
「かっこいい人をうまくマネること」である。
だからいっせいにミラノやパリから
『Tシャツをズボンにものすごく入れるモード』という
文化が入って来たらクルッと手のひらを返す。
100%裏返る(Tシャツがじゃないよ)。

しかし今、現実を見渡して残念なのは
「Tシャツを入れているような連中」が、
その内面も気持ちの悪いオタク小僧か、
ファッションを言う前にニオイどうなの?と
首を傾げたくなるようなオッさんであるという事実である。

外見をけなされることは
その洋服の生地や仕立てやコーディネイトに
ダメ出しされているのではなくて、
人間性や考え方や生き方まで否定されているような気分になるものだ。

「オシャレじゃない」なんて
「グルメじゃない」と同じように嗜好性の
強い偏った視点からの価値決定にすぎないはずなのに。

考えを進めて行けば、
ファッションは「選択肢のもともと狭い場所」に
落ち着くしかなくなるのではないか。
けなされることを最初から避けるにはそれしかない。

「その柄、なんで?」とか
「その組み合わせ、おかしいよ」なんて
言われることに怒りを感じるならば、
どうだ、ファッションチェックのしようがないだろう、
という防衛戦を最初から張るしかなくなる。

流行をまったく意識せず、
必要最小限の道具しか使わず、
矛盾した好き嫌いを披瀝せず、
一生同じスタイルを貫くという姿勢を見せるしか無い。

それを実践している人が、かっこいいかはまた、
別次元のハナシになる(笑)から難しい。

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